ルカによる福音書

1 主の証人として

ルカ   1:1−4
ハバクク 2:1−3
T 私たちの間で

 福音書の中で「ルカによる福音書」は、他の福音書に比べ、より現代向けではないかと感じられます。それは、ヘレニストの知識人がギリシャ語圏の異邦人向けに記したものだからです。当時のギリシャ語圏は、国際感覚を持つ現代人にかなり近かったと言えましょう。ルカによる福音書は24章と長く、かなり時間がかかると思いますが、出来るだけ丁寧にそのメッセージを聞いていきたいと願います。

 まず1:1-4の序言からです。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます」 シリア・アンテオケ生まれのヘレニスト・ルカが(この福音書には「ルカ」の名前は出てきませんが)この福音書を書いたのは、恐らくAD58年頃と思われます。パウロの第3次伝道旅行に同伴し、小アジアからマケドニア・ギリシャの各都市を経ていくつもの教会を立て上げ、エルサレム教会にその報告のため戻ってきました。そこでパウロはユダヤ人に告訴され、カイザリヤに幽閉の身となります。彼は皇帝に上訴してローマに行くことになるのですが、ルカもその間ずっとパウロと行動を共にし、恐らく、カイザリヤ滞在中に多くの資料を入手して、この福音書を書き記したのではないかと思われます。以前から、ギリシャ語圏の人たち向けの福音書執筆が求められ、ルカが適任者と思われていたのでしょう。ルカは各地の教会を立て上げるために働いてきたチームメンバーの一人でしたから、それらの教会の様子をその目と耳で確かめていました。「私たちの間で」というのは、その諸教会の信仰者たちを含めてのことではないかと思われます。

 当時のローマの皇帝は「ネロ」、AD64年に起こったローマ大火の放火犯をキリスト教徒であるとして迫害を始めた最初の皇帝で、悪名高い皇帝として有名ですが、54年に即位して5年ほどは統治にまじめに取り組んでいた意欲溢れる皇帝だったようですから、パウロも皇帝への上訴を決意したものと思われます。その頃、教会はユダヤ人の迫害に遭っていたとはいえ、ローマ世界で順調に拡大していたと考えていいようです。ローマの高官(口語訳では「閣下」となっている)と思われるテオピロがキリスト教に非常な興味を持っていたのは、そんな時代だったからかも知れません。使徒行伝も彼に献呈されていますが、その時、彼はクリスチャンになっていたようです。


U みことばと教会と

 そのようなテオピロを読者と想定してこの福音書が書かれましたが、不思議なことに、この「テオピロ」が何者なのか、ルカ以外の資料が全く見当たりません。「鈴木」「田中」のようにありふれた名前で、もしかしたら、架空の人物かも知れないと言う人もいて、ルカの真意をいろいろと想像する向きもあります。しかし、架空、実在のいずれにしても、「テオピロ」は私たちを代表する人物に違いありません。その「テオピロ」に、ルカは「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたい」と願いながらこの福音書を書き上げました。「正確な事実」である事柄、ルカはそのことを目指しているようです。「すでに確信されている出来事」「初めからの目撃者」「みことばに仕える者となった」「(彼らが)私たちに伝えたそのとおりを」と、幾通りもの言い方をしていますが、これはまぎれもなく、イエスさまの福音を指しています。多くの人たちが「目撃」したイエスさまの福音は、目撃された以上に深められ高められて伝えられました。「みことばに仕える者となった」とありますが、この「みことば」には二つの意味があると思われます。一つはイエスさまご自身のこと、もう一つは「神さまのことばである聖書」を指しています。当時は主に旧約聖書でしたが、すでに出回っているマタイの福音書やパウロ書簡、或いは、断片的な目撃情報なども含まれています。目撃者たちは、それらの「みことば」と目撃した事柄とを突き合わせ、その出来事・イエスさまの福音が神さまのご計画であったとして、これを他の人たちに伝え始めたのです。


 ルカはその証言を聞きました。それは、目撃した個々人の感想などではなく、その証言によって立てられた教会を通して伝えられてきた証言でした。今ルカは、その証言媒体の教会が一段と枠を広げたところで、この福音書を書き上げようとしているのです。「みとば」と「教会」を目撃情報に加え、彼は二重にも三重にも「正確な事実」の証言をしようとしているのだと聞こえてきます。


V 主の証人として

 いくつかの点をピックアップしたいと思いますが、気をつけながら言いますので、どうか注意深く聞いてください。第一は「正確な」ということです。これは「頼るに足る」という意味で、原語では「否定語+よろめかす(或いはだます)」という複合語です。「よろめくことがないように」ということで、ルカはイエスさまの福音を綿密に調べ上げ、順序立てて書き上げようとしているのです。そうすれば、「すでに教えを受けられた事がらが頼るに足る事実であることがよくわかる」であろうと期待しているのです。きっと、イエスさまの福音を聞いた人たちの中には、当初それを素直に信じてはいたが、ローマの価値観に振り回されたり、ユダヤ人の律法主義に惑わされたりと、聞いた福音から離れていくケースが多かったのではないかと想像します。それは、現代の私たちと重なるではありませんか。それはきっと、頼るに足る事実として聞かなかった結果ではと思われてなりません。これは綿密に調べ上げられた証言ですから、私たちもそのように聞かなければなりません。

 第二は、「確信されている出来事」ということです。これには「成就した出来事」と言い換えている訳も古くから多数あり(口語訳、新共同訳参照)、それは、イエスさまの福音が、私たちの間で「確信されている」と同時に、その福音自体すでに「成就した」という、二つの意味を持つことを示しています。「確信」という日本語には、信仰者たちの思い込みというニュアンスが感じられるかも知れませんが、二つの意味を有する言葉をここにその二つの意味のまま用いることで、福音は救いであるという(私たちの)思い込みではなく、2000年前のある日、十字架に死なれ、よみがえられたイエスさまにおいて完結したと、ルカの断固とした主張が聞こえてきます。そして、その福音を私たちが信じたことは決して間違いではないと、これがこの序言に込められた彼の最大のメッセージだったのでしょう。

 第三のことは、ルカがその出来事の目撃者ではなかったという点です。この点は特に注目しなければなりません。目撃者が「正確な事実」を証言する資格を持つとはかぎらないのです。むしろ、「見た」「聞いた」ことだけに捕らわれますと、物事の表層しか映ってきません。そのような人間の感覚など、すぐにいい加減な記憶に化けてしまうものでしかなく、「伝達ゲーム」を思い浮かべるまでもありません。ほんとうに大切なことは、見えないところに隠されていることが多いのです。だからこそ、目撃者たちはその目撃した出来事を「みことば」に照らし合わせ、教会の歩みの中で何度も何度も確かめながら、これは信頼に足る出来事であると、「福音の証言」を積み重ねてきたのでしょう。ルカもまたその意味での証言者として立とうとしています。彼は、目撃者としてではなく、そのような証言を聞いて信じた者として、現代の私たちにも語りかけました。これは神さまから出た事柄なのです。「成就」したイエスさまの福音を「確信」したそれは、彼の中に起こった神さまのお働きであると、何よりも彼はそのことの証人として立っているのでしょう。私たちもその同じところにと願おうではありませんか。