コロサイ人への手紙

9 みことばに聞くことを

コロサイ書 1:26−29
詩篇 119:65−72
T 信仰の奥義を

 今までパウロは、「イエスさまの存在」がどのようなものかを明らかにしようとしてきました。しかもそれは、イエスさまの十字架の犠牲を私たちがどう受け止めるかという、イエスさまの存在意義に私たちを絡めての証言でした。端的に言いますと、イエスさまの十字架を正しく「私の罪のためであった」と聞くかどうか、それは私たちの信仰にかかっているという、彼の問いかけではなかったかと思われます。

 パウロはその問題提起でまず、自分は福音に仕える者にされたと言います。それは、パウロが仕える福音こそ正しくイエスさまを伝えるものだという証言であり、その福音に立って欲しいという願いです。しかしパウロは、異端に毒されているコロサイ教会の人たちに、今、彼らが意識しているところで訴えなければ……と、まだ言い足りないものを感じているようです。その思いが、今朝のテキスト26-29節になったものと思われます。何が彼らの意識の中心にあるのか、また、それに対しパウロはどう語りかけようとしているのか、聞いていきたいと思います。

 「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです」(26)とあります。〈奥義〉、それがここの中心主題です。奥義には知恵というニュアンスも含まれており、今、コロサイ教会に一般化しつつある、グノーシス流の言い方でもありました。そして、〈これは多くの世代にわたって隠されていた〉とは、旧約聖書に散りばめられているメシヤ預言など、福音のことと思われますが、恐らくパウロは、グノーシスとともに教会に入り込んでいた、ユダヤ主義に対して戦いを挑んでいったということなのでしょう。ユダヤ人たちは、旧約聖書を律法と預言、つまり神さまの教えの書と捉え、そこにメシヤという救いの希望が語られていると認めてはいたものの、そのメシヤがイエスさまであるとはどうしても信じられませんでした。つまり、隠された奥義だったのです。グノーシスにしろユダヤ主義にしろ、彼らはイエスさまの福音をねじ曲げて受け止め、どうしてもその奥義に触れようとはしません。パウロは、すでに教会に定着していたその言い方を逆手にとって、彼らに本当の奥義・イエスさまを知って欲しいと願ったのでしょう。


U 十字架のイエスさまを

 奥義というと、私たち東洋人は何か神秘的なものを感じますが、これはもともとギリシャ系の言葉であって、知性と結びついており、その意味で、パウロが「神のことばを伝える者とされた」ことにつながります。新共同訳では「世の初めから秘められた計画」と訳されていますが、そう聞きますと、奥義とは、神さまが私たちに伝えたいと願った計画であるという、パウロの意識が浮かんでくるようです。秘められたとは、悟ろうとしない者たちにとっては謎ですが、神さまの計画が謎にされたのでないことは言うまでもありません。明らかにされなければならない、そして、時満ちて「いま神の聖徒たちに現わされた」神さまのご計画と言って良いでしょう。〈世の初めから〉とあります。パウロはイエスさまの存在に関する論議を、創造主であることから始めました。旧約聖書に散りばめられた福音こそイエスさまを指し示すものであり、ユダヤ人たちの目に隠されてきた神さまのご計画の中心はイエスさまなのだと、パウロの証言が聞こえるような気がします。そしてそれは、現代の私たちにとっても、聞かなければならない証言でしょう。旧約聖書を読み解く鍵はイエスさまなのです。

 その奥義が今、明らかにされようとします。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです」(27) これは私には、ユダヤ人たちの目に隠されてきたイエスさまの福音が、「あなたたちコロサイの人たちには届いているではないか」と、それを思い出してくれるよう願っているパウロのことばと聞こえます。彼らは、神さまが彼らに近づいてくださったということを忘れていました。恐らくコロサイの教会で、指導的な立場にいたユダヤ人たちが、「君たちはあくまでも異邦人なのだ」と、教会の人たちに神さまから遠く離れた者たちという意識を植え付けていたのでしょう。ユダヤ人指導者たちの選民意識がありありと見えるではありませんか。教会に入り込んでいたもう一つの異端グノーシスも、イエスさまを空想上のこととして、彼らを神さまから引き離していました。しかし、パウロは全く逆に、「あなたたちの方が神さまに近い」と教えているのです。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(27) これは信仰をもって受け止める事柄だと聞こえてきます。そしてパウロは、十字架のイエスさまを見つめることこそあなたがたの信仰ではないかと励ましているのです。事実、イエスさまは私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。彼らコロサイ教会の人たち、そして、現代の私たちも、ただこの一点を聞かなければならないと思うのです。


V みことばに聞くことを

 「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(28-29) パウロはしばしば、自己宣伝ではないかと思われるほど強い自己主張を繰り返しています。その理由の一つは、自分を見て欲しいということですが、実は、イエスさまを見て欲しいと言っているのです。イエスさまに自分を重ね合わせているのです。そして、もう一つの理由を考えてみたいと思います。

 当時の教会指導者は、エパフラスのように、イエスさまに会ったことのない人たちでした。すでに、現代の私たちと同様に日曜日ごとの礼拝を守っていましたが、教会は基礎作りの真っ最中でしたし、教会で教えなければならないことは多面的であり、その量も多かったことでしょう。パウロやペテロたちから聞いたことだけを繰り返して済ませられるほど、礼拝メッセージが貧弱で良い筈はありません。指導者自身が絶えず教えられ、聞いていくところからメッセージが生まれてくるのであり、それは、現代の私たちと何ら変わるところはありません。彼らが教えられたのも、勿論、神さまのことばからでした。一つは旧約聖書、そして、もう一つは、次第に出来上がりつつあった新約聖書でした。コロサイ書が書かれた当時、すでにロマ書やコリント書といったパウロのいくつかの書簡や共観福音書などが広く各地の教会に流布していました。そして少なくともエパフラスは、パウロの書簡を教会訓練のテキストにしていたと想像します。それは旧約聖書とともに、すでに神さまのことばとして聞かれていたと考えていいでしょう。「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるため」(Uペテロ3:2)とあるのは、そのことを暗示しています。

 パウロは、この初期教会の必要をよくよく知っていました。彼が「奮闘している」と言うのは、福音を宣べ伝えたということと同時に、その教えを文書にまとめていったということです。「知恵を尽くして」とありますが、彼は、神さまのロボットとして働いてきたのではなく、培ってきた知識と、何よりも、イエスさまに出会って教えられた主の「知恵」を駆使して、後世に残す「神さまのことば」に取り組んでいました。伝説によりますと、小柄で病気持ちの、見るからに貧弱な老人だったようですが、しかし、内にみなぎる「キリストの力」に動かされて、若い者顔負けの精力的な働きを重ねていたのです。神さまはパウロの全人格を神さまのご用に用いられました。私たちも全人格をもってそれに応えようではありませんか。神さまのことばを聞いて受け止めるとは、そのように、私たちの全人格をもって聖書に聞き、そして聞いたことに応えるということではないでしょうか。