コロサイ人への手紙

8 苦しみを重ね合わせて

コロサイ書 1:23b−25
イザヤ書 53:10−12
T イエスさまの福音は

 先週は21-23節から、〈私たち信仰者がどのように生きるか〉が、「イエスさま存在」の一翼を担うと聞きました。創造主、救い主としてのイエスさまは、他に誰がいなくても栄光に満ちておられるのですが、それにもかかわらず、私たちとともに歩みたいと願っておられる。まさに「フュール・ウンス・ゴット」(我らのための神)たらんと欲したお方であると聞いたのです。そして私たちは、このことを、15節から始まったパウロの一連の証言の重い結論であると受け止めました。しかし、パウロはまだ筆を止めようとはしません。今朝、その続きを聞いていきましょう。

 ここで、全文をもう一度読んでみました。「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」(23b-25) 情けないことに、何回読んでもパウロのメッセージが見えて来ません。やむを得ず、推測から始めていくことにしました。少々理屈っぽくなるかもしれませんが、お許し下さい。

 23節に「(福音を)宣べ伝える」「(パウロが)仕える」という二つのことばがあり、25節でそれがもう一度繰り返されています。そして、その二つは同じことだと意識され、24節に凝縮されています。その一つ、「教会」ということが、ここの中心主題と考えられます。

 コロサイ教会の人たちがイエスさまを信じる者となったのは、その始まりに、福音を「宣べ伝える者」がいて、彼らがそれを聞いたからです。パウロは、その最初のことを彼らに思い出して欲しかったのです。彼らに福音を伝えたのは、恐らくエパフラスだったでしょう。ローマでパウロと出会い、その指導のもとに福音を伝えたいと願い、生まれ故郷コロサイに帰省したものと思われます。ですからパウロは、面識がなくても彼らの指導者でした。その彼らが異端に惑わされている。パウロは、彼らの信仰のために、自分の立っているところをはっきりさせなければならないと感じ、「このパウロは〈その福音に〉仕える者である」と書き送ったのです。自分を売り込もうと宣伝しているのではありません。イエスさまの福音が、それを受け止めている人間と如何に深く関わっているか、私たちの信仰に照らして、考えなければならないパウロの姿勢です。


U パウロの祈りを

 23節で〈福音に仕える〉とあるところが、25節では〈教会に仕える〉と言い直されています。それが24節では「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしているのです」(新共同訳)とあり、これは、イエスさまに仕えているという意識なのでしょう。パウロにとって、福音また教会は、イエスさまが具現化されたものでした。イエスさまを私たちの生活空間で感じ取るところが教会であり、そこで、イエスさまの十字架に罪赦される福音に招かれて、「あなたは信じますか」と私たちの信仰が問われているのです。

 パウロはその辺りのことを、もっともっと煮詰めようとしています。いくつかのことを聞きたいのですが、まず〈キリストの体である教会〉のことです。考えてみたいのですが、体とは、頭のてっぺんから足のつま先まで一つ人格によって統一されたものであり、教会も同様に一つの有機的人格と考えて良いでしょう。ローマの群れもコロサイの群れも、また2000年以上も時を隔てた日本の神戸のこの小さな群れも、区別無しに、イエスさまの体として組み込まれた一つの有機体だと聞くのです。小指の先が傷ついても全身が痛むように、痛みも喜びも信仰も賛美も、同じ一つの思いに意識されていくのが共同体です。教会がイエスさまの有機体であるとは、そのような信仰共同体であると聞くことです。私たちの目には、地域に建てられた現実の各個教会しか見えてきませんが、本来は、時間や空間を超えて、イエスさまを信じた者たちの一つ群れなのです。ですから、小指がけがをした時に、その痛みを最も激しく感じるお方は、その有機体のヘッド・イエスさまなのです。「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たす」とは、教会に仕える姿勢であると理解されていますが、全くその通りでしょう。コロサイ教会の痛みが今、パウロの痛みとなっています。彼の祈りを思わないでは、届いて来ないことばではないでしょうか。


V 苦しみを重ね合わせて

 現代の教会のことを考えてみたいのですが、私たちにとって教会とは、会堂、教団組織に組み込まれた個々の教会、役員を中心に組織化された信仰者の集まり、牧師の個性(人格者、癒しの賜物、話上手)を中心に集まる集団……と、個々人がイエスさまに結びついた、本来あるべきイエスさまの教会とは少し違った意識があるようで気にかかります。少なくとも、大きな会堂があり、たくさんの会員がいれば、それで立派な教会であるとするのが、大方の共通の意識ではないでしょうか。そして現代、その教会の受け止め方が、それこそ十人十色ばらばらで、共通の関心部分がなければ、教会の交わりそのものが成立しないのです。それでは一致したらと、エキュメニカルという教会一致運動が生まれて来ました。異端の教えに侵されたコロサイ教会が、これに重なってきます。異端の教師を中心に、教会内にいくつもの派閥が生まれていたようですが、主流となるのは誰のグループかなどと、彼らの中に争いがあったようです。教会はもはや、イエスさまのものであるとは語られなくなっていたのでしょうか。人間が中心になったコロサイ教会には、もはや信仰の平安はなく、悩みや苦しみが充ち満ちていました。そして、もしかしたら、現代の教会も、立派な教会を目指しながら、そのような異端への道を……と心配になるのです。

 パウロが「あなたがたのために苦しむことを喜びとしている」というのは、そのような在り方に異議を申し立てたということではないでしょうか。パウロの苦しみは、実はイエスさまの苦しみであり、「欠けたところ」と言われることも、案外、そのことかも知れません。するとパウロが「身をもって満たしている」というのも頷けるでしょう。イエスさまの十字架を、罪を赦すための過去の出来事と思ってしまうところがありますが、このパウロの意識から、ハッと気づかされたことがあります。「教会のための苦しみを担っている」とは、十字架の苦しみが、過去の出来事だけではなく、私たちの今、現在の苦しみに対しても継続しているのでは、ということです。十字架の苦しみと私たちの涙を見ての苦しみは、イエスさまにとって同じ比重の苦しみなのでしょう。イザヤ書に「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(53:11・新共同訳)と言われています。

 それが喜びであると聞くと、また「フュール・ウンス・ゴット」(我らのための神)たらんとされるお姿が浮かび上がってきます。前回、創造主、救い主としてのイエスさまが、その栄光の存在を、私たち信仰者の生き方に重ねようとしておられると聞きました。こんなにちっぽけな私たちの苦しみを背負ってくださることで、重ね合わせようとしておられるのです。パウロの一つのメッセージを聞いてみたいのですが、パウロは「神のことばを伝える」(25)器として立てられました。そして、その神さまのことばに聞いて欲しいと願っています。それこそが、唯一、イエスさまのご愛に近づいていく道だからです。そして、神さまのことばとは十字架のイエスさまそのものだと、はっきりさせたかったのでしょう。私たちの信仰が、いつもそのイエスさまを見つめていけるようにと願わされます。