コロサイ人への手紙

7 信仰を貫き通して

コロサイ書 1:21−23
イザヤ書  41:8−102
T まず罪の問題から

 15節から始まった「イエスさまはどのような存在か」という議論の最後に入ります。第一は、「天地万物の創造者」ということでした。しかし、その創造は、決して絶対的崇高者であることを誇っているのではなく、徹底的にご自分を犠牲にした、十字架の姿で私たちの救い主になってくださったという、新しい創造を見据えています。それが第二のことでした。ドイツ神学に「フュール・ウンス・ゴット」という言葉があります。「私たちのための神」という意味ですが、まことにイエスさまは、私たちを他にしてご自分の主たる栄光を望んではおられないと、心に刻んでおきたいと思います。

 今朝は第三のことです。21-23節からですが、そんなイエスさまを証言するパウロは、まだ続きがあると筆を止めようとはしません。耳を澄ませて聞いていきたいと思います。最初に21節からです。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのです」

 パウロは、コロサイ教会の人たちの罪の問題(現代の私たち自身をも指していると受け止めたい!)から始めます。先週、「罪とは元来、神さまに対する反抗である」と聞きました。しばしば現代人の私たちは、罪ということで、殺人とか盗みといった法律違反のようなものだけを見るところがあります。しかし、聖書が告発する罪の中心は、神さまへの反抗であり、神さまからの離反であると知らなければなりません。そのことをきちんと理解しなければ、罪が私たちと神さまとの間の溝になっていることが分からないでしょう。現代人に無神論者が多く、それが科学的だと勘違いしているようですが、一面、現代科学は、自らが神になる過程を歩んでいると思われるほど思い上がっていると感じられてなりません。それは神さまへの反抗でなくてなんでしょうか。「神を離れ、心において敵となって」と言われるのは、コロサイ教会の人たちとともに、現代の私たちなのだと聞いていかなければなりません。神さまから遠く離れてしまった者・私たちが、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば、偽り」(3:5-9)といった「悪い行ないの中に」たっぷり漬かっていて、それを悪いこととは思わない部分があることに気づいていたいものです。


U 神さまへの復帰を

 二番目に考えたいことは、22節前半です。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました」 イエスさまの十字架の証言ですが、これは13節、20節に続く3回目であり、パウロがどんなにこの証言を大切にしていたかが伝わって来ます。〈和解〉それは、今朝のテキストばかりではなく、コロサイ書、そしてパウロ神学の中心と考えていいでしょう。岩波の広辞苑で〈和解〉と同種の言葉〈宥和〉を引くと、「罪によって神から隔離された人と神との関係を和解させること」と説明されています。それに〈イエスさまによって〉と付け加えるならば、簡単な説明としては十分かと思います。ただ、十字架の出来事を私たちは贖罪と聞いて来たのに、何故〈和解〉と言い換える必要があったのか、或いは贖罪と和解とは別の事柄なのか、考えてみたいと思います。

 十字架とは、イエスさまが罪を犯した私たちの身代わりとなって死んでくださったことを意味します。それを神さまが受け入れ、私たちを罪から解放された者と認めるのです。つまり、イエスさまから見た十字架の意味は「贖罪」であり、ご自分のいのちをもって私たちを罪から買い取ってくださったということです。私たちから言うなら、それは〈赦し・赦罪〉でしょう。パウロが罪の問題から始めたのは、その辺りのことをきちんと理解して欲しいからに他なりません。ところが、罪とは根本的に神さまへの敵対であり、離反であると聞いてきました。そしてこれは、贖罪や赦罪というイエスさまと私たちの間のことだけでは解決しない部分ではないでしょうか。なぜなら、罪の問題の中心には父なる神さまがおられるからです。贖罪は私たちの問題としての罪を処理するものですが、しかし、神さまとの間に立ち塞がる罪も解決しなければなりません。私たちの罪を取り除こうと、神さまがイエスさまの十字架を決められたのは、勿論、私たちを愛してのことでした。それが贖罪です。しかし、何よりも、その愛する私たちが罪に囚われ、父なる神さまを離れ、神さまを見失っていたことを忘れてはなりません。本来の、エデンの園で神さまと一緒に安らいでいた者に戻って欲しい、それが私たちにいのちの息を吹き込まれた神さまの最大の願いでした。イエスさまの十字架は、贖罪に終わるものではなく、神さまへの復帰に至るものであったと覚えたいのです。それが和解です。和解は神さまの一方的な恩寵と言われますが、そこに、ご自身が造られた者たちに、自分のもとに帰って欲しいという、切ないまでに込められた神さまの願いが伝わってくるようです。


V 信仰を貫き通して

 今朝聞いていきたい三番目は、22節後半から23節です。「それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」 これはパウロの「イエスさまはどんな存在か」という主題とはまるで関係がないと感じられるかも知れません。しかしパウロは、イエスさまが創造主であり、贖罪主であると述べた二つの主題に、あたかもいのちの息を吹き込むかのように、この部分を続けるのです。パウロがここで何を聞いて欲しいと願っているのか、聞いてみたいと思います。

 前半部分に、〈ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました〉(新共同訳)とあります。これが私たちのこととは驚きです。罪赦されたとはいえ、今も私たちはその中に悩んでおり、罪と無縁になったわけではありません。にもかかわらず、聖なる者、傷のない者……と言われるのです。そのような完全無欠の人格は、神さまご自身をおいて他に断じてないでしょう。ここに言われる姿は、まさに神さまご自身の姿ですが、けれども、そこに私たちを加えてくださるという、これはまさしく恵みの宣言です。「あなたの罪を咎めることはもうない。たとえ、どんなに大きな罪を抱えていようとも」と聞こえてきます。これこそ和解です。その和解の宣言を神さまは、イエスさまの十字架において行なったというのです。そしてこの和解は、遠い未来の天国でのことではない、パウロは私たちの現在を言っていると受け止めて頂きたいのです。

 そしてパウロは、〈ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません〉(新共同訳)と、神さまに聖なる者とされた私たちの生き方を励まし、ここを終えようとします。新改訳で「ただし」としたのは、訳しすぎと思います。イエスさまの創造主という主張も、また贖罪主としての十字架も、ご自分の全存在をかけたものでしたが、そんな神さまご自身のお働きを、また、それほどの犠牲を払って私たちを心配してくださったということを、私たちがどう受け止めるのかというところにまで、パウロは踏み込みました。パウロが問題にしたのは勿論コロサイ教会の人たちですが、それは間違いなく私たちでもあるのです。イエスさまの存在は、他に誰がいなくても最高の価値ある存在でしたが、しかし、そのイエスさまが、私たちとともに歩みたいと願っておられるのです。或る意味で、私たちの受け止め方がイエスさまの存在価値の一端を担うとも言えましょう。「フュール・ウンス・ゴット」(我らのための神)であらんと欲したお方の熱い思いが感じられるではありませんか。

 主がそれほどまでに愛してくださった私たちであると聞きたいのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)と言われる主への信仰を貫き通し、兄弟姉妹ともに御国に凱旋していきたいですね。そこに主がいらっしゃのですから。