コロサイ人への手紙

6 信仰の目の高さを

コロサイ書  1:18−20
詩篇  84:10−12
T 教会・私たちの生き方が問われる場として

 コロサイ教会に入り込んでいた、異端グノーシスの「キリストは最高天使」という教えに対抗するように、パウロはイエスさまのことを語り始めます。〈イエスさまがどのような存在であるか〉に的を絞って、第一に取り上げたことは、15-17節の「万物を創造されたお方」ということでした。

 今朝は18-20節の、二番目の主題が語られるところです。「万物を創造されたお方」という最初の主題が次第に煮詰められていきます。1節づつ見ていきたいと思いますが、最初に18節です。

 「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられました」 新改訳では文章が散漫で意味を汲み取りにくいため、永井訳を上げることにします。「また彼は體(即ち)集会の頭にておわす。彼は初めにし、すべてのもののうちに首位とならんために、死人のうちよりの長子におわせり」〈彼は初めである〉とは、「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(1:15・新共同訳)とある、創造主としてのイエスさまを意識しているのでしょう。そしてそれは、実は、死者の中からよみがえったことによるのだと言うのです。これは、先週、イエスさまが見えない神さまのかたちとして「王座、主権、支配、権威」の座に着かれたのは、十字架とよみがえりの出来事を通ってのことであると聞きました(1:16)が、その繰り返しなのでしょう。今、コロサイ教会に異端が入り込み、イエスさまではない〈かしら〉を据えようとしている。その教えを受け入れ始めた教会の人たちに、パウロは、イエスさまを除いては、教会は教会たり得ないとはっきりさせようとしているのです。恐らく、異端グノーシスは、彼ら独特の哲学で武装した創造論を展開していました。哲学という彼らの土俵に引き込まれ、為すすべを知らない若い教会の姿が浮かんで来ますが、パウロは、そんな彼らに、教会こそ創造の中心だと証言しているのでしょう。信仰は、決して哲学ような頭だけのことではなく、イエスさまに罪赦された者たちの生き方なのです。ここの中心点は、思弁的創造論のようなものではなく、イエスさまを信じる私たち一人一人の生き方が問われる場〈教会〉であると聞かなければなりません。「イエスさまは万物の創造主」という最初の主題が、「イエスさまは教会のかしら」という主題で理解されるようにと言われているわけです。


U 神さまの目に価値ある教会

 きっと、その「教会のかしら」が意識されてのことなのでしょう。パウロは、異端が言う「数多い(天使の)適任者の中から教会のかしらとされた・イエス・キリスト」という教えに、断固「そうではない」と異議を唱えます。二番目は19節からです。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ:新共同訳)とあります。パウロの意識は明確です。「教会のかしら」は他に適任者がいるわけではない。イエスさまただお一人だけなのです。そのイエスさまに、神さまはご自分が持っておられる一切のもの、力、愛、権威、創造主としての栄光すらお渡しになったと語るのです。〈イエスさまが神さまのかたち〉と言われるのは、恐らく、それ以上の、神さまご自身を注ぎ込んだということであると思われます。〈宿らせ〉とは、〈永遠に住まわせ〉という意味のことばであり、唯一、神さまだけが持っておられるものです。それを神さまは、〈御心のままに〉イエスさまにお与えになられたのです。これは、神さまがこうされようと決められた意志を断固実行することでした。

 ただ、ここで少し、神さまと御子・イエスさまのことを、整理しておく必要があります。天地万物を造られた時点で、神さまが父、子、聖霊という三一の神さま(この言い方はありませんが)であると聖書は主張しています。御子イエスさまが、その時、本来のご栄光を有しておられたことは間違いありません。パウロが最初に「万物は御子にあって造られた」(1:15)と証言したのも、第一に、その意味においてです。しかし、イエスさまはその栄光をお捨てになりました。ヨハネが「人となってこの世に来られた」というのは、そのことを指しています。ですから、今、神さまが明確な意志をもって、イエスさまにご自分のかたちのすべてをお与えになったというのは、十字架とよみがえりをくぐり抜けたイエスさまになのです。教会のかしらとなるために、イエスさまは神さまの新しい栄光を纏われたと理解してください。教会は、神さまがそのように新しくリフレッシュなさったご自分のすべてを注ぎ込むほどに、価値ある存在なのだよという宣言と聞こえてきます。教会は、神さまにとって、全創造にも匹敵する存在だったのです。

 ただ一方で、それほどのものを注ぎ込まなければならないほど、現実の教会は手がかかるという暗示なのでしょうか。新しい栄光を纏われたイエスさまが、なお、聖霊という助け手を送り込まなければならないほど、目を離したらすぐに、人間のエゴーが一杯になってしまう教会なのですが。


V 信仰の目の高さを

 もう一つのことを考えてみたいと思います。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」(20)とあるところからです。

 19節で、〈教会のかしらとなるために、イエスさまが神さまの新しい栄光を纏われた〉と聞きました。それは、コロサイ教会の人たちを意識してのことと思われます。彼らは、異端の教師たちから、王座、主権、支配、権威の座に着いた方が、知恵や力をもってその地位を得たと聞いていたのでしょう。グノーシスとは、〈知識〉とか〈知恵〉という意味です。2:4節を見ますと、教会内に「まことしやかな議論」があったことが窺えますが、彼らの信仰の営みは、実は喧噪な知識のひけらかしにあり、つまるところ、特定の教師を取り巻く派閥の力が巾を利かしていたものと思われます。すでにコロサイ教会には、多くの争いが充満していました。しかも、教会内の主導権を握りつつあった異端グノーシスも必ずしも一つの意識に統一されていたのではなく、さまざまな意見の争いがあったと想像されます。そして、そのような争いは、人間の集まるところ、現代の私たちのところでも、日常的に起こっているのではないでしょうか。しかも、「地にあるものも天にあるものも万物が」とあるのは、そんな人間の罪によって、周囲のすべてのものが混乱・不調和に陥ったことをいうのでしょう。地球温暖化など、自然環境破壊という現代の問題まさにそのような状態ではないでしょうか。

 恐らく、世の常の王座、主権、支配、権威といった座については、争いがつきまといます。現代はまさに、弱肉強食の世界と言って良いでしょう。しかしパウロは、力関係がものを言う教会に異議を唱えました。イエスさまは十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださいました。その血だけが平和をつくり得たと聞いていきたいのです。人間同士の平和だけではない、神さまと私たちとの平和です。和解とは、神さまが望まれた平和、イエスさまの十字架を通して神さまが宣言された私たちとの平和を指しています。本来、神さまはご自分の聖にかけて、罪ある者とは断じて交わらないお方でした。罪とは元来、神さまに対する反抗です。現代のように、神さまを認めないというのは、その反抗の、もしかしたら究極の現われなのかも知れません。現代の教会にも、そのような人間の問題が入り込んでいるとしたら、パウロの言う「和解」の意味の重さを考えてみなければなりません。イエスさまの十字架は、そんな私たちの罪を贖うものであり、教会は、そのイエスさまだけを見つめるところであると覚えて頂きたいのです。神さまとの平和も人との平和も、ただただ、イエスさまの十字架を見つめる私たちの信仰の目の高さにあるのではないでしょうか。「イエスさまが教会のかしらである」という中心主題は、十字架におかかりになったイエスさまを、そのように見つめて欲しいと願ったパウロの、悲しいまでの思いが込められている言い方ではなかったかと思います。その、パウロが見つめたお方を、私たちも見つめていきたいと心から願わされます。