コロサイ人への手紙

5 今も創造者なるお方に

コロサイ書 1:15−17
イザヤ書 57:15−19
T 存在したもうお方

 パウロは、おそらく、コロサイ教会の人たちのイエスさま理解に不安を感じていたのでしょう。13-14節で彼らが聖徒とされた経緯を、「イエスさまの十字架の贖いによって」とイエスさまの根幹に関わる問題を少し取り上げた後、改めてイエスさまのことを語ろうとします。15-23節です。彼らの中に入り込んでいた異端グノーシスの教えが、「キリストは天的存在(アイオーンと呼ばれている・天使と考えて良かろう)の一つ」であったことを受けて、〈イエスさまの存在〉ということに的を絞ったのです。三つの面から語られますが、三回に分けて聞いていきたいと思います。

 今朝は15-17節です。まずここでパウロは、「神さまの創造」という局面において、イエスさまがどのような存在かを正しく理解して欲しいと願っているようです。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」(15)と、二つのテーマを掲げて始まりますが、イエスさまが「見えない神のかたち」と言われるのは、神さまの顕現ということでしょう。それは、コロサイ書全体を通して聞いていかなければならないことです。今朝は「造られたすべてのものより先に生まれた方」と言われることから考えてみたいと思います。これが15-17節の中心主題であろうと思われますが、しかし、ここを新改訳だけに頼ると、たとえイエスさまが最初に造られたにしても、被造物であると聞こえてしまうので注意して頂きたいと思います。「先に生まれる」とは、創造以前の存在を意味するもので、新共同訳は「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と訳してます。そのことをパウロは徹底したかったのでしょう。そして、決して間違った読み方を許さない言い方で繰り返します。「万物は、御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(16-17)


U 発端、完成、そして目的も

 一度や二度読んだだけでは何のことか良く分からないと思いますので、少し整理することにします。これは、「万物が造られた」というシンプルな文章に、「御子にあって」「御子によって」「御子のために」と3つの言い方を加えていること、そして、「万物」を「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座、主権、支配、権威」と具体的な事象として列挙していることが、この文章の特徴となっている構造で、それぞれ分けて考えなければならないでしょう。

 まず御子に関する3つの言い方からですが、第一は「御子にあって」です。これは「御子の中で」という言い方で、万物の創造が形になる以前に、それは御子の中で始まったことを意味します。創世記での創造は、神さまのことばによっていますが、それは、神さまが突然「光よ、あれ」と語られて出来たということではなく、詳細に検討された全体構想、そして、それに基づいて個々の精密な設計図が考えられ、調和も、個性も、その仕上がりがイメージされながら、まるで、年季の入ったベテラン職人が精魂込めて作品を造る時にも似たプロセスが、まず御子の中に進行し、それが創造の出来事になっていったと理解していいでしょう。創造の発端は御子にあると言い換えてもいいと思います。同じことが17節でも繰り返され、強調されていると考えて良いでしょう。万物の創造がそれほどまでに整えられて生成したものであるとは、恐らく、かの異端の教えからは聞くことがなかったのではないでしょうか。

 第二は「御子によって」です。原文では一回だけの言い方ですが、強調のためでしょうか、新改訳は二回繰り返しています。これは、今聞いたように精緻な検討が重ねられた後、御子によって天地万物が今まさにこの地上(または宇宙)に生成したと言うことであり、創造はまさに、御子がなさったことだったのです。それは、造られたあらゆるものが、御子を中心に結び合わされ、調和を保ち、そして、お造りになった方を目指して歩み続けているということではないでしょうか。御子は、造られた私たちが懸命の歩みを続けて一つところに到達しようとする、目的でもあります。それがもう一つの、三番目のことであり、「御子のために」です。宗教改革から生まれた信仰告白、ウエストミンスター小教理問答書の第一問を思い出します。「人の生きる目的は何か」「人の生きる目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである」 これは、創造の発端も完成も目的も何もかも御子によるという証言に聞こえてきます。もっとも、このように推察したことを、コロサイ教会の人たちがみな理解するとは、パウロ自身も思っていなかったでしょう。「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(17)と加えたのは、そのためだったのかも知れません。


V 今も創造者なるお方に

 さて、イエスさまが創造なさった〈もの自体〉のことを考えてみたいと思います。万物を「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も」(16) と言い換えているところ、御子が手をかけ、心を砕いて創造されたということに続く第二の主題です。

 創造というと、私たちはすぐに創世記1章をイメージしますが、それは「天地万物の創造」ということで、そこに光や時間など、「もの」とは言いにくい部分があっても、大体は、私たちが「物」として考えているものの創造ではないでしょうか。パウロが掲げる「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの」とは、その物に当たるものでしょう。しかし、御子が創造されたものは、物だけではありません。「見えないもの」も創造されたのです。時間や光などがこれに当たるのでしょうか。そうすると、考えなければならない部分は、「王座、主権、支配、権威」ということです。

 これは、当時の異端が言う天使論の用語であろうと言われますが、その通りでしょう。彼ら異端は、イエスさまを最高の位にある天使の一人と位置づけ、その最高の位が、イエスさまが座った王座であり、付与された主権、支配、権威であったと言うのです。つまりイエスさまは、それらのものを、上なるお方・神さまから頂いたと説明されていたのでしょう。イエス・キリストは神さまご自身ではないというのが、この異端の中心論点でした。現代でも、この異端の論点を引き継いだ教えが数多く跋扈しています。パウロがここで徹底してイエスさまのことを「御子」と言うは、その異端に対抗してのことだと考えてよいでしょう。イエスさまがお座りになった王座や、執行された主権、支配、権威がどこから来たかを詮索することは、私たちには不要です。パウロは「御子がお造りになった」という言い方で、「その時点」があったことを暗示していますが、問題は、そこに座り、それを行使されたのがいつかという点です。この問題をここだけで解決するのはむつかしいと思いますが、しかし、この「御子論」を次の「教会のかしら」や「十字架の血」(18節以下)に繋げることで、その「創造」が単なる元始の昔に済んでしまった出来事ではなく、現在にまで続いている新しい出来事だと聞こえてくるのです。恐らく、イエスさまがその王座に着かれたのは、十字架とよみがえりの後であり、そして、その新しい創造に、私たちの救いという出来事も含んでいるのではないでしょうか。17節に「万物は御子にあって成り立っています」と言われているのも、御子が私たちの現在にまで、創造(救済を含む)者として関わっておられることへの言及ではないかと感じるのです。

 コロサイ教会の人たちばかりではなく、いつの時代にも、私たち人間はこのお方を創造者、また救済者としても正当に評価して来ませんでした。ともすれば、「なおもそむいて、自分の道を行った」(イザヤ57:17)と言われる者たちです。混乱の度を深める現代、とくに耳を傾ける必要がありそうです。「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしはくちびるの実を創造した者、平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」(同57:19) 心の耳を澄ませて聞いていきたいと願います。