コロサイ人への手紙

4 十字架の贖いは

コロサイ書 1:13−14
イザヤ書 53:5−6
T 闇の力に囚われて

 先週、1:9-12節を取り上げましたが、その続きである13-14節を省いてしまいました。今朝はその残ったところを見ていきたいと思います。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」 御子とありますが、イエスさまのことです。パウロはこのお方のことを、15-23節で改めてこの書簡の中心主題として取り上げますが、不思議なことに、一度もこのお方がイエスさまだとは説明していないのです。恐らく、コロサイ教会の人たちがそれを十分に聞いていたからでしょう。とすれば、13-14節の簡潔な言い方も、彼らに十分に通じると期待しつつ語られたと感じます。この短い簡潔な部分を、パウロの期待に照らしながら補っていきたいと思います。

 最初に、「暗やみの圧政」(他の訳では「闇の力」)が意味するものを考えてみたいと思います。これは「光の中」(12)に対称して言われたものであり、パウロは、コロサイ教会の人たちが「闇の力」に支配されていたと言うのです。恐らく、今もその支配下にあるのではと、問いかけたのでしょう。現代の私たちは、それを即座にサタンの支配下にあると理解するのですが、そのような公式的なものではなく、ここから、それがどのように私たちに関わりながら「闇の力」になっているかを探ってみたいと思います。恐らくそれは、コロサイ教会の人たちにとって、現実的な重大な問いかけでした。ローマでイエスさまを信じた、逃亡奴隷オネシモを思い出して頂きたいのですが、彼はコロサイ教会の有力者ピレモンのもとを逃げ出した奴隷でした。パウロがピレモンに「彼を赦してやって欲しい」と書いてオネシモ自身に持たせた手紙が、同じ獄中書簡の「ピレモン書」です。恐らく、オネシモが逃げ出したくなるような、辛く厳しい奴隷社会がコロサイ教会内部に存在していたと思われます。そして、その問題が、異端につけ込まれる彼らコロサイ教会の重大な弱点になっていたのではと推測するのです。パウロが中心主題として「信仰、愛、望み」を語ろうとするのも、それが彼らの信仰や愛や望みを深いところで妨げていたからでしょう。「闇の力」が彼ら自身のそういった内面に関わる部分を煮詰めさせず、異端がそこにつけ込んで来たと言えなくもありません。今、イエスさまの最も基本的なことが語られるのですが、何回も聞いた筈のことが、もう一度繰り返さなければなりませんでした。問題は、「闇の力」に囚われている彼らの信仰の事柄だったのです


U 主の前に膝をかがめながら

 それにしてもパウロは、彼らの信仰に関わる重大なことであると思われるのに、「闇の力」を「そこから救い出して」と簡単に述べ、パスしています。そして、13-14節の残り全部を、イエスさまに関することだけに費すのです。「闇の力」は、確かに私たちのうちに大きな部分を占めるものでしょう。しかし、私たちの中で、それ以上に大切にしていかなければならないものは、イエスさまのことであり、それをいつも私たちの中心に据えておきたいのです。先週、異端との戦いで知らなければならないのは、私たちの信じる神さまのこと、真の知恵であると聞きました。私たちの生き方は、イエスさまに向かって前に進むものであって、後ろ向きであってはならないのです。

 このイエスさまのことで、いくつものことが語られますが、ここで、パウロが彼らコロサイ教会の人たちに思い出して欲しいと願った二つのことを考えてみたいと思います。一つは、「御子のご支配の中に」ということです。「闇の力に支配されて」と聞きました。「闇の力」と「御子の支配」、私たちはそのいずれにも支配される可能性を持っています。支配ということばは、「王さまの統治」という意味ですが、現代民主主義が最高のシステムであると、それしか知らない私たちにとって、絶対的主権者が存在する世界を想像することは大切なことでしょう。そして、多くの方たちは否定されるかも知れませんが、現代においても、私たちが闇の絶対主権者サタンの支配下にある場合が非常に多く、その主権者に魂を売り渡す機会が増えているということに気づいて頂きたいのです。そして、彼に逆らうことの出来る者は誰一人いないということも。混乱の度を深める現代は、特にそうであろうと思います。しかし、そのサタンに対抗し得る唯一のお方がおられます。イエスさまです。十字架に死んで、私たちの罪の贖いとなってくださったイエスさまだけが、その死をもってサタンとの戦いに勝利されたのです。イエスさまを信じるとは、絶対主権者である王さまの声を聞くように、その前で膝をかがめながら、ひたすら十字架の赦しに私たちの全人格を傾けて聞いていくことなのです。私たちが日曜日ごとに教会に集まって礼拝を行なうのは、みことばに聞き、主を崇める中に、「イエスさまが私の救いとなってくださった」と何度も何度もそのことを感謝していくことではないでしょうか。


V 十字架の贖いは

 もう一つのメッセージです。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」(14)とある〈贖い〉のことですが、今、少し触れたことを、もう少し考えてみたいと思います。

イエスさまの十字架の死のみが、唯一サタンの「闇の力」に対抗し得るものと聞きました。サタンの力をあらゆる分野で混迷を深める現代という状況の中で考えてみますと、犯罪の低年齢化が進んでいます。いじめなども大きな社会問題になっています。子育てが出来ない親たち、妻や子どもに暴力を振るう家庭内バイオレンス、きっと大人に問題があるのでしょうね。その問題の大半が他者否定ということに最大の原因があるのではないかと思われます。つまり自己中心ということです。これは、近代以後個人主義がもてはやされるようになったことと無関係ではないでしょう。その源流の一つに、宗教改革者カルヴァンの神学が挙げられるのは何とも皮肉なことですが。サタンが如何に〈良い顔〉を装っているかという一つの例です。恐らく、コロサイ教会の問題となっている異端もそんな顔をしていたと想像されます。年輪も教育も常識も道徳も、また、敬虔な宗教意識や日本人文化と言われる〈恥の意識〉さえ、サタンの〈人を争わせる道具〉にされている現代です。真面目とか正義感ということさえも当てにはならない。奴隷を所有することなど、パウロ当時の人たちが「おかしい」と疑うことではありませんでした。しかし、それが彼らコロサイ教会の愛の欠如につながり、知識だけが優先される異端の虜囚となる原因になったとすれば、今、私たちが置かれている状況が、果たして問題の種を抱えてはいないか、点検してみる必要があるのではないでしょうか。

 自己中心の道を走り出してブレーキが利かなくなっている現代、個人も社会も国家さえも他者否定に傾いてしまったのは、神さまを見失ったところに生じる当然の結果なのかも知れません。思えば、近代とは神さまを否定するところから出発していました。物質主義も金銭至上主義も初めはゆっくりでしたが、次第にスピードを上げて、とうとう行き着くところまで来てしまったのではと思われるほどです。パウロの叱責を聞いてみましょう。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者……」(ロマ1:29-31) こう聞きますと、その「罪」が私たちの回りに(私たち自身も含めて)溢れているではありませんか。イエスさまの贖いは、徹底的に罪にある私たちをそのような罪から救おうと、ご自分のいのちを犠牲にされたことなのです。これは自己否定の最たるものでしょう。パウロは、異端の教えに囚われて自己主張を繰り返すコロサイ教会の人たちに、十字架のイエスさまを思い出して欲しいと願いながらこの手紙を書き送りました。「贖い、すなわち罪の赦しを得ている」とは、その十字架のメッセージに他なりません。このコロサイ教会の人たちに、現代の私たちが悲しくなるほど重なって来ると感じます。十字架のメッセージを聞いてほしい。そして、ぜひとも闇の力から主のご支配下に移ろうではありませんか。