コロサイ人への手紙

3 主の聖徒に召されて

コロサイ書 1:9−12
詩篇 149:1−9
T 祈りが形に

 コロサイから戻ったエパフラスの報告を聞いて、パウロは、コロサイ教会に入り込んで来た異端のために、彼らの信仰が非常な危機に陥っていることを知り、心を痛めつつこの手紙を送ります。この手紙は、異端との戦いを一つの中心主題にしていますが、その異端に信仰を侵害されたコロサイ教会の人たちに、イエスさまの福音に立つ者として、何としても育って欲しい「信仰、愛、望み」というパウロのもう一つの中心主題が語られようとしています。しかし、まずパウロは、彼らコロサイ教会の人たちのために祈り、そして、何よりも危機的状況にある彼らを神さまの手に委ね、神さまご自身が支え、守ってくださるようにと願います。エパフラスの報告に、ほんのわずかだったかも知れませんが、彼らにまだ愛があることを聞き、そこに回復の望みを感じたのでしょう。それが、祈りと感謝という冒頭3節の励ましになったのです。そして、3節だけでは十分ではないと感じ、それをもう一度取り上げます。今朝の9-12節は、再度の「祈りと感謝」への言及です。

 「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています」(9)と始まりますが、〈こういうわけで〉とあるのは、前に述べたことを受けてというより、これから述べようとすることに懸かる、ギリシャ語特有の言い方のようです。パウロの意識の中に、彼らが異端との戦いに勇敢に立ち向かって欲しいという思いあってのことでしょう。異端との戦いばかりではなく、イエスさまを信じる信仰は、戦いという要素を色濃く持っていると思います。何を基準に戦うのか、パウロは今、そのことに触れようとしています。ともあれ、〈私たちは……祈っている〉と、この手紙は、ローマ教会の人たちの祈りが形になったものと受け止めていいのではないでしょうか。


U 神さまとともに

 9-12節の短いところに、パウロはいくつかの異端に立ち向かう信仰者たちの武装を掲げます。エペソ書に「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。……救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」(6:14-17)と「神の武具」を示した有名なところがありますが、コロサイ書には、それほど大げさに「これが信仰者たちの身につける武装である」とは言われていません。しかし、エペソ書よりもずっと具体的です。コロサイ教会がまだ幼い群れだったからかも知れませんが、ともあれ、順々に見ていくことにします。

 初めに知識ということです。「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(9-10)

 グノーシスとかユダヤ主義といった異端のことはいづれ見ていくことにしますが、先週、この異端が必要としていたのは、「周到に考えられた人間の知恵だけ」であると見ました。確かに彼らには、信仰、愛、望みといった内面の事柄ではなく、その生き方を構築する思弁だけが必要だったのです。そしてそれは、異端のレッテルを貼られた教えだけではなく、現代主義とでも言ったらいいでしょうか、現代人の生き方そのものが、この異端の「思弁だけを追い求めている」生き方、つまり、小手先の方法論だけを重視する生き方に重なっていると感じられてならないのです。恐らく、パウロがここで異端を特定していないのは、コロサイ教会の本当の問題点は、異端の教えに囚われていることではなく、彼らの生き方がクリスチャンとして確立していないと感じていたからではないでしょうか。実は、しばしば誤解されることですが、異端との戦いで必要なことは、異端に関する知識ではないのです。勿論、それも最小限必要ですが、しかし、それがイエスさまの教えに似て非なるものであると正しく判断することが出来るだけの内容、−私たちが信じ、生き方の土台にしている−ことを何よりもはっきり整えておくことが、第一に求められていると知らなければなりません。私たちの前に立っているものが異端であれ、現代主義であれ、それはある意味どうでもいいことであり、それによって私たちの生き方が変わることはないと思い定めておきたいのです。

 その、私たち信仰者の最も大切なことを、パウロは「真の知識」「神を知る知識」(知恵と訳すほうが妥当)であると言っています。ここでパウロは、神さまを知る真の知識を二つ挙げていることに注意して頂きたいのです。一つは「霊的な知恵と理解力によって到達する真の知識」、つまり神さまご自身から頂く知恵です。そしてもう一つは、「主にかなった歩みをすることで到達する真の知識」、つまり、思弁ではなく(口先だけのことではなく)、生活の中に根付いた信仰の知恵ということです。クリスチャンの知恵は哲学ではなく、神さまとともに歩む生き方だと覚えて頂きたいのです。


V 主の聖徒に召されて

 11-12節に少し形を変え、その二つがもう一度繰り返されます。コロサイ教会の人たちや現代の私たちに足りないものの、パウロ流強調なのでしょう。「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように」 この箇所は多くの人たちが翻訳に苦労されたようですが、新改訳は少し曖昧ですので、二つの事柄をきちんと整理した口語訳から見ていきたいと思います。「更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び」(11)「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせてくださった神に、感謝することである」(12)

 まず第一のことです。これは〈神さまから頂く力によって強くされていく〉ことであり、クリスチャン生活全般に渡るものでしょう。〈強くされ〉るようにと、特に忍耐心において言われていますが、異端と接することで、イエスさまを信じる信仰への疑問が生じた彼らへの励ましかと思います。イエスさまを信じる信仰は、この世の中で非常な忍耐を要するものであると、現代の私たちも十分経験させられているでしょう。私たちは、「クリスチャンでなければ、あれもこれも出来ただろう」と、自分の能力に無限な可能性が広がっているかのように錯覚することがあります。それは、サタンの囁きではないでしょうか。信仰を守り通す忍耐は、何もしないでひたすら辛い時間が過ぎるのを待つことではなく、祈り、聖書に聞き、イエスさまと向き合う、そのような意識的忍耐です。そして、そこで得られるものは信仰の喜びです。それは、時として無意味に感じられるかも知れませんが、神さまの前でそのような生き方が問われていると覚えたいのです。

 第二に、〈神さまの聖徒とされたことへの感謝〉ということで、神さまの恵みに生きるということが取り上げられます。「光のうちにある聖徒とされた」とあります。この光は神さまの栄光のことであり、私たちはその栄光に招かれているのです。その栄光がどれほど素晴らしいものであるか、私たちには想像すら出来ませんが、もともと私たちのものではない栄光が、私たちのものとされ、決して聖徒ではない者が、聖徒と呼ばれるのです。「あなたは聖徒なのか」「あなたは光の中を歩んでいるか」と自分自身に問いかけるとき、光の中を歩む聖徒と呼ばれることに非常な驚きを覚えるでしょう。現代社会で特に感じることですが、この世の生き方には感謝や満足が伴わず、周りの人たちを見ても、いつも不平や不満や不安に支配されているようです。そのような人たちの中で、光の中を歩むように召された者たちの最高の生き方が、感謝や喜びであるとは、何とすばらしいことではないでしょうか。

 バビロン捕囚という苦難の時代に歌われたものと思われますが、詩篇にこうあります。「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を」(149:1) 倣いたい信仰の姿勢です。