コロサイ人への手紙

21 熱い思いを内に

コロサイ書 4:2−6
詩篇   42:1−5
T 目をさまして祈りを

 信仰者の新しい生き方への、パウロの具体的な勧めの4番目、最後のところです。4:2-6から見ていきましょう。

 「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。……」(2)と、パウロはここを〈祈りと宣教〉という二つのことで締めくくろうとしています。しかし、3節に「同時にまた、私たちのためにも祈ってください(原文)」とあり、この締めくくりの中でも3節以降を別項目のような書き方をしていますが、恐らく、パウロの意識の中で締めくくりの中心は2節であり、3節以下は別の意識から書き加えられたものであろうと思われます。まず、2節から見ていきたいと思います。

 第一に「目をさまして」でありますが、これは「油断するな」という警告と聞くべきでしょう。もしコロサイ教会の人たちが、イエスさまを信じる信仰に立ってよくよく見据えていたなら、どんなに巧妙な教えでも、異端には十字架とよみがえりのイエスさまがいないと判断することが出来た筈です。しかし、自分たちの信仰を根底から否定されるにも等しい教えを聞いて、あっさりとその虜になってしまった彼ら、それは油断でなくてなんでしょう。恐らく、彼らの油断は、イエスさまの福音を、その根本で自分へのものと聞いていなかったことではないでしょうか。パウロがしばしば「みことば」に言及しているのは(1:25,3:16等)、彼らがみことばへの取り組みをいい加減にしていたからではないでしょうか。きっと、感謝も祈りも、信仰生活全般に渡って、甘かったのでしょう。それは、現代の私たちも聞いておかなければならない問題です。交わりの居心地良さだけで教会に結びついている場合があります。しかし、その居心地の良さだけに目を向けているなら、イエスさまの十字架とよみがえりという福音の本質の部分が失われてしまいかねません。信仰者の油断とは、そのような在り方であると聞いておきたいのです。


U 感謝のうちに祈りを

 その「目をさまして」は、祈りに結びつきます。口語訳がそのニュアンスに近い訳をしていると思われますので紹介しましょう。「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」 油断しないで信仰に立っていくために、今聞いた一つのことは、「みことばにしっかり取り組んでいくように」でしたが、もう一つは「祈り続けることである」とパウロは、祈りが中心の信仰生活をしていくように勧めるのです。これを、祈りは神さまとともに歩むことであると聞いていきたいのです。

 2節で見ておきたいもう一つのこと、それは「感謝をもって」です。これも祈りに結びつくのですが、どのように結びつくかを考えてみたいと思います。神さまに繋がっているために、3:16-17でパウロは迷わず「感謝」を挙げています。パウロは、そこに神さまの恵みを感じ取って欲しいと願っているのでしょう。「感謝(ユーカリスト)には恵み(カリス)が隠されていると覚えてほしいのです」と(コロサイ19のメッセージから)聞きました。感謝はイエスさまを信じる信仰の本質に属する事柄です。そして信仰は、その私たちと神さまとの隙間を埋めるものであり、そこで問われるのは、一体どれほどの恵みを神さまから頂いて来たかということです。数えられるものなら数えて頂きたいのですが、愛する兄弟姉妹、みなさんはきっと、たくさんの祈りを重ねて来たことでしょう。そして、その祈りが聞かれてきたのです。感謝はそこから生まれてきます。祈りが聞かれたことを主の恵みに帰することが信仰の行為であり、敏感に神さまの恵みを認めていくことなしに、恵みを恵みと感じることは出来ないでしょう。「目をさまして祈る」が極めて理知的な信仰姿勢であるとするなら、「感謝のうちに祈る」は私たちの信仰の感性を豊かにしていくものであると言うことが出来るでしょう。祈りがその感性を育てるといって良いかと思います。感謝しつつ祈り、祈りつつ感謝! そして、みことばに聞きつつ高められた信仰理解の中で、祈りが更に深められていくように。願い事だけの祈りだけではなく、魂の底から沸き上がるような祈りが私たち信仰者の人格を形造っていくのだと、これをパウロの勧めと聞いていきたいと思います。


V 熱い思いを内に

 これまでのパウロの勧めは、一つ一つの言葉を吟味しながら丁寧に使い分け、彼らコロサイ教会の人たちがそれをどう受け止めるかというところにまで視野に入れて、実に整然と論理の展開がされており、圧倒されながらここまで読み進んできました。何回読み返しても、その都度パウロの思いが新しく語りかけて来て、その意味で、読めば読むほど、もっともっと深い味わいが隠されていると感じてきたのです。今見た2節にも、そのように理路整然とした展開を感じます。

 ところが、3節以降、これも「祈り」ということで、つい2節の続きと思ってしまうのですが、ピリオッドがないなど文章のつながり具合はともかく、内容的には、ここでパウロの冷静な論調が突如崩れているように感じられてなりません。先に3節の最初の部分を原文通りに紹介しましたが、「同時にまた、私たちのためにも祈ってください」というのは、ローマにいるパウロたち一行にも相当困難な状況が迫って来ているからなのでしょう。「牢に入れられている」とは、紀元61年頃のことで、使徒行伝最後の記事に重なります。その時パウロは、自分で借りた家に住んでいて、比較的自由ではありましたが、ローマ兵の監視つき囚人でした。しかし、そのような中で彼は、なおイエスさまのことを宣べ伝えていたのです。2〜3年後の紀元64年には、ネロ皇帝の迫害が始まります。すでに、ローマ人との価値観の違いから、小アジヤのいくつかの教会では迫害も始まっており、ピレモンとオネシモのことから、コロサイ教会にもそのような問題が生じていたことが暗示されています。そしてそれは、ローマにおいて本格化し始めていたのでしょう。また、ユダヤ人との軋轢も続いていて、このような慰めと励ましの手紙を送りながら、私たちもあなたがたの祈りに支えられてでなければ働きを続けることは出来ないのだと、ここから、パウロの、ぶつけるかのような気持ちのたかぶりが聞こえてくるのです。コロサイ教会の人たちが、自分たちのことばかりに汲々としていることに、歯がゆい思いをしていたのかも知れません。健全な信仰に立ち戻るには、自分以外の人たちにも目を向け、執り成しの祈りをしていく必要があるということなのでしょう。

 そのように見ていきますと、彼らコロサイ教会の人たちが勧められる2つのこと、パウロたちへの執り成しの祈りと、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」と言われるように、他の人たちからイエスさまのことを尋ねられた時にどう答えなければならないかが、一つのこととして結びついているのが見えてきます。〈塩味のきいた〉とは、イエスさまを信じる信仰が生活の中でそれと分かるようにという勧めです。彼らが異端の教えを振りかざして、議論中心の信仰に走っていたことへの戒めと聞いて良いでしょう。まだ一世紀の半ばです。そのころ、地中海世界各地に建てられた教会は、恐らく、イエスさまの一つ教会であるという意識を持っていたと思われます。そしてこの「祈りと宣教」は、その繋がりの核とも言うべき意識だったのではないでしょうか。信仰者の生き方に、祈りと宣教が加えられていくように。そんなパウロの意識がにじみ出ている勧めと聞こえてきます。

 決して冷徹な思想家などではない、これが伝道者パウロの本領ではなかったかと思います。神さまに召し出された、神の人の熱い思いが彼の内に溢れているのを感じます。信仰とは、そのような熱い思いがたぎるものでしょう。詩篇に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(42:1)と歌われていますが、そのような熱い思いを私たちの信仰の中にも育てていきたいと願わされるではありませんか。