コロサイ人への手紙

20 主のことを思って

コロサイ書 3:18−4:1
イザヤ書 57:15−19
T より重いものを

 現代、次第に終末を色濃く感じ始めている中で、クリスチャンの生き方が、今まで以上に人々から見つめられ、問いかけられていると感じます。この時代に、私たちのイエスさまを信じる信仰を、もう一度根底から問い直していく必要があるのではないでしょうか。

 今朝は3:18-4:1、クリスチャンの新しい生き方を問いかけるパウロの具体的な勧めとして、3番目の段落です。この段落が3章と4章にまたがっているのは、章節を考案した印刷屋(R.ステファヌス・1556年)が疲れていたのかも知れません。ここには妻と夫、子どもと父、奴隷と主人という3組の立場に立つ人たちへの勧めがあります。一つ一つ見ていきたいと思います。

 まず、「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」(18-19)とあるところからですが、妻への「夫に従いなさい」を考えてみたいと思います。これは、如何にも男性優位を強調しているようですが、必ずしもそうではなく、この妻たちは恐らく、社会的に高い地位を持つ自由人の妻たちを言っているのでしょう。当時のローマ社会では、そのような妻たちが社交場に入り浸って夫の悪口などのおしゃべりをしたり、男社会さながらの宴会騒ぎに明け暮れ、挙げ句の果てに、不倫に走ることも珍しくなかったようです。そのような妻たちが教会にもいた様子が、パウロやペテロの手紙に記されています。パウロは、そのような風習に染まらず、「家庭を守る」彼女たちの責任を果たしなさいと言っているのです。それは、夫に従うという女性ならではの責任でした。またそれは、妻たちの責任であると同時に、より重い夫たちの責任を問うものではなかったでしょうか。妻たちは、従わなければならない夫たちを見て、自分の生き方を定めようとしていたのでしょうから。それは、現代においても変わることはありません。「妻を愛しなさい」とありますが、現代という混迷の時代に生きる私たちは、それを、最も根本的な生き方への問いかけであると聞かなければなりません。


U 信仰者として

 2番目の「子どもと父」、3番目の「奴隷と主人」にも、この原則が教えられているのではないかと思われます。「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。……」(3:20-4:1) この父たちへの勧めは、子どもたちに対する愛情と聞いていいでしょう。父権絶対で、体罰が社会問題となるような時代ではありませんでしたが、それだけになおさら父親の愛情が問われたと聞こえてくるのです。そして、3組目の、「奴隷に対して正義と公平を示しなさい」とある主人への勧めも、同様に奴隷に対する愛情と受け止めていいのではと思います。〈正義と公平をもって奴隷に接すべし〉などという時代ではなく、たとえ主人がそれなりの正義感を持っていたとしても、それが奴隷に及ぶことはまずありませんでした。唯一、奴隷を含む家の者たちへの愛情が、奴隷への正義と公平を選択させる基準ではなかったかと思うのです。そして、そのような、主人が奴隷に愛情を注いでいた例は数多く見られます。

 ところで、妻たちに勧められる「服従」は、かなり強い響きの「従属」を意味するものですが、子どもたちと奴隷たちには、少しニュアンスの異なる「聞き従う」という意味での服従が勧められています。妻と、子どもまた奴隷とは、立場の重さが違うと言えばそれまでですが、パウロは、そのどちらの意味での服従も、私たち信仰者に要求しているのではないかと感じます。つまり、主への絶対服従と理解による服従です。その二つがどう違うのか、説明を求められても困るのですが、聖書は信仰という事柄を、その両面の出来事と言っているように思われます。それは信仰の事柄ですが、愛情も同様です。パウロはクリスチャンたちに、旧約的な社会秩序を守るように教えたかったのではなく、信仰者としてどうあるべきかを示しているのです。イエスさまを信じる者だから、殊更愛ある者になりなさいと勧められていると聞かなければなりません。それが、身近な人たちに向かっての「愛しなさい」「怒らせないように」「正義と公平とを」ということばになったと思われます。現代の私たちにとって、そのいづれもが(服従をも含めて)欠けている点ではないでしょうか。

 ここでは、コロサイ教会に多かったからでしょうか、奴隷に対する勧めが一番長く扱われています。多分、妻も夫も子どもも父も主人も、その姿はどれもが現在の私たちに重なってきますが、しかし、この奴隷の姿は、とりわけ私たちそのものではないかと聞こえて来ます。恐らく、「主に対するように」と教えたパウロの勧めが、このところの中心ではないかと感じます。


V 主のことを思って

 「服従と愛」のことをもう少し考えてみましょう。同じ時期に書かれ、よく似た勧めが展開されるエペソ書にはもっと多くの要素が盛り込まれていますが、コロサイ書ではほとんどが服従と愛に終始しています。近くの教会でしたから、エペソ書もコロサイ教会で回覧され、互いに補完し合うよう希望したのかとも思いましたが、しかしパウロは、「服従と愛」だけを勧めるコロサイ書のこの短い勧めが、信仰者にとって、それだけで十分であると考えたのではないかと思うようになりました。

 パウロは今、コロサイ教会の人たちに、イエスさまとともに新しいいのちによみがえった信仰者としての、新しい生き方を具体的に指し示そうとしています。彼らは、グノーシスとかユダヤ主義といった異端の教えに囚われており、新しい生き方への意欲を失っていると見て差し支えないでしょう。異端の教師たちには多分いくつもの派閥があり、互いに自分の教えに賛同し、聞き従うことを要求し、主導権争いをしていたと思われます。彼らは、服従こそ信仰であると教えていたらしい痕跡がいくつもあり(1:13,16,2:8,15など)、教会の人たちはパウロから服従と聞いて、それが信仰者の生き方であると即座に了解したのではと思います。そして、きっと愛のことも……。異端の派閥は、恐らく、家の集会単位で広がっていたと思われますが、他集会への切り込みは、彼らの結束が堅くなければ出来ないことでした。つまり、主導権争いに加わろうとするには、自分たちのグループが最高の真理に立つ、唯一の尊い交わりであると信じ込む必要がありました。それは、洗脳ではありますが、一つ真理を共有したと信じる者たちの交わりは、親兄弟の絆よりも固く、深いものになります。それを「愛」と信じ込むのに、時間も説明もいらないでしょう。彼らは服従も愛も手に入れていたのです。

 パウロは、彼らのその服従と愛とに向かって真っ向から戦いを挑んでいきました。彼が教える服従と愛は、異端の締め付けとは根本的に異なっていたのです。3組への勧めが展開される中で、パウロは丁寧にイエスさまのことを語っていきます。「主にある者にふさわしく」(18)「主に喜ばれることだからです」(20)「主を恐れかしみつつ、真心から……」(22)「主に対してするように」(23)「主も天におられることを知っているのですから」(4:1) つまり、クリスチャンの服従と愛は、イエスさまを基準とするものであるということです。そのイエスさまが、「赦してくださった」「愛してくださった」という十字架の事実こそ、服従と愛の最高の模範となっているのです。パウロはここで何よりも、イエスさまの十字架の愛と従順を念頭に置いています。そのイエスさまの服従と愛の十字架を徹底的に見つめようではありませんか。更につきつめて言うなら、イエスさまを愛し、イエスさまに従うことを第一に、私たちの信仰の土台を築いていきたいと思うのです。