コロサイ人への手紙

2 主の愛の中で

コロサイ書 1:3−8
ホセア書 11:8−9
T 同じ信仰に立って祈りと感謝を

 先週、この書簡は、個人としてのパウロからというより、ローマにいる同じ信仰の兄弟姉妹たちの祈りのしるしとして書き送られたのではないかと聞きました。3節に「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」と、そのことが明らかにされています。今朝のところは、まず祈りと感謝に始まりますが、最初にそのことを考えてみたいと思います。恐らくローマの教会は、コロサイ教会を非常に近い意識をもって祈り覚えていたのでしょう。そこでは、彼らが伝道者として送り出したエパフラス(コロサイ出身)が苦闘していましたから、彼らの信仰、愛、望み(4-5)について聞き、感謝が溢れ出たのではと思われます。

 ちょっと想像して頂きたいのですが、ローマの教会と言っても、当時大きな会堂があったわけではありません。少人数に分かれ、誰それの家とか、点在する洞穴(もう少し経つとそれが迫害のためにカタコンベなどでの地下教会ということになっていく)などに密かに集まり、パンを裂く交わりをし、イエスさまのことを聞き、愛と信仰の歩みを続けているのです。その彼らの、今、世界各地で迫害などの苦闘に遭い始めている同じ信仰者たちへの熱い祈り、そして、その祈りが主に届いているという手応えを聞いた時の彼らの喜びを想像して頂きたいのです。コロサイの兄弟姉妹たちが、イエスさまを信じる信仰故の愛に歩んでいることを、エパフラスの報告で知ったのでしょうが、それは彼らにとって何より嬉しいことであったに違いありません。その彼らに、まず感謝が生まれました。勿論、コロサイ教会に問題があってこの手紙になったのですが、その問題云々よりもまず、ここでイエスさまが覚えられていることへの感謝が語られることに、心が震えるほど、彼らの信仰の思いを感じます。

 その同じ喜びを、今も味わうことが出来ます。イエスさまを信じる同じ信仰に立てば良いのです。同じ信仰を告白し、同じメッセージを聞き、同じ聖餐に加わり、心を一つにして祈り、その祈りを主が聞き届けてくださったと耳にする、そこにおのずから感謝が溢れてくるのです。祈りと感謝、現代の私たちクリスチャンにとっても、それは信仰者の中心的な生き方であると覚えて欲しいのです。


U 叱責ではなく、福音を

 パウロは、祈りと感謝というクリスチャンの基本的な在り方に触れながら、それはコロサイの兄弟姉妹にも覚えて欲しい大切なことであると言いたいのでしょう。彼らに祈りと感謝が足りなかったというのではありません。しかし、今、この教会に入り込んでいる強力な異端の教えが、彼らからその祈りと感謝を奪い取ろうとしていると感じているようです。この書簡中に、何回も祈りと感謝の勧めが繰り返されているのは、そのようなパウロの危機意識の現われではないでしょうか。

 そしてパウロは、その祈りと感謝に加え、今、もう一つのクリスチャンの基本姿勢を取り上げます。信仰と愛と望みです。これは、Tコリント13:13に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」とあるように、パウロ書簡の中心主題でもありますが、その中心主題がここに取り上げられるのです。コロサイ教会に問題があってこの手紙となったと指摘しましたが、これがその中心と見て差し支えないでしょう。「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです」(4-5)とあります。こう言われるのは、そういったものが彼らの中に育っていたからでもありますが、また、彼らをイエスさまから引き離そうとしている異端の教えが、育ちつつあったそれらのものを打ち壊そうとしていたことも事実のようです。エパフラスの報告は、コロサイ教会のそういった危機的状態のために、祈ってくださいというものだったのでしょう。パウロは詰問する代わりに、彼らの中にまだ残っている本物の信仰、愛、望みを呼び覚まして欲しいと願い、それがこんなにも心を込めた優しい書き出しとなったと推測するのです。

 ここで、その信仰や愛や望みの内容について全く触れようとはしていないのは、恐らく、イエスさまを信じる信仰、聖徒たちの互いに愛する愛、また信仰者たちが神さまに招かれている天の望みについて、彼らが十分に理解しているという前提のもとに語っているからでしょう。しかし彼らは、もう一度その福音を聞き直す必要がありました。だからパウロは、イエスさまの福音を繰り返し語ろうとしているのです。そして、そのように繰り返し福音を聞くことは、現代の私たちにとっても、信仰に生き生きと立っていくために、必要かつ不可欠なことではないでしょうか。


V 主の愛の中で

 この書簡では、コロサイ教会の人たちの信仰をねじ曲げようとしている異端との戦いが一つの中心主題です。その異端ということを考えてみたいのです。詳しくは2章で取り上げられますが、まず8節からです。「(彼は)私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました」とあります。これは、ローマに戻ったエパフラスが、パウロなど伝道者たちの集まりで、コロサイ教会の実情を報告したことを受けて言われたものと思われます。彼は、今、コロサイの教会の人たちが、入り込んで来た異端のために信仰の危機に陥っていると、そのことを報告するためローマに戻って来ているようです。

 少し考えてみたいのですが、パウロはここで彼の中心主題を取り上げているのですが、しかしここでは、「信仰、愛、望み」の中の、ただ愛だけだけが語られています。恐らく彼は、叱責するためにではなく、コロサイ教会の人たちの信仰回復を願ってこの手紙を書き、そして、その回復につながる唯一のことは、愛であると理解したのでしょう。パウロが言う「聖霊によるあなたがたの愛」とは、何よりも彼らの中に働かれる聖霊なる神さまの愛のことではなかったかと思うのです。パウロは対決を通して異端を明らかにすることよりも、彼らに侵害させてはならない私たちの信仰の中身を明らかにするところから、その異端の中心思想にまで踏み込んでいこうとしているようです。それは恐らく、愛に欠けることだったのでしょう。彼は、その愛において、イエスさまの福音に結びついていて欲しいと願っているのです。パウロの優しさが溢れる文面と感じるではありませんか。

 パウロがこの異端を2:8で「むなしいだましごとの哲学」と言っているように、恐らく、彼らに必要なのは周到に考えられた人間の知恵だけであり、祈りも感謝も、また、信仰や望みや愛さえ、彼らには不要でした。しかし、私たちが十字架の贖いに罪赦されたのは、イエスさまが私たちを愛してくださったからであり、それこそが、イエスさまの福音であるとパウロは言いたかったのです。「あなたがたは、すでにこの望み(信仰も愛もこの望みの中に包括されている)のことを、福音の真理のことばの中で聞きました」とあり、この福音に立って欲しいと願っています。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」とあります。それは、現代の私たちにも向けられたメッセージであると聞いていいでしょう。

 ここにエパフラスの名前を上げたのは、彼の教えに聞くことが、真のイエスさまを信じる信仰に立つことであると、コロサイ教会の人たちを教え諭すためではなかったかと感じます。そして、「(彼は)私たちに、聖霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました」と、決して彼が彼らの不信仰を告発したのではないと言い、その愛に立ちなさいと、彼らが聞いてくれることを願ったのではないでしょうか。4:12に「エパフラスは、あなたがたのために祈っている」とあります。コロサイを離れてなお、彼らのために祈るその姿は、「聖霊による愛」に押し出されている姿に他なりません。ホセア書に「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(11:8)とありましたが、これはパウロやエパフラスと同じ愛であり、その愛を私たちもと願わされます。