コロサイ人への手紙

19 神さまに繋がって

コロサイ書 3:15−17
詩篇  149:1−4
T キリストの平和を

 信仰者たちの新しい生き方を問いかけた3:12からのパウロの具体的な勧めで、前回は内容が詰まっていたため12-14節までと細切れにしましたが、今朝は続きの15-17節からです。そこから、パウロが続けて語ろうとするメッセージを聞いていきたいと思います。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」(15) 〈支配する〉これは、古代競技で〈栄冠を勝ち取る〉という意味で使われた言葉ですが、それが〈権力をもって統治する〉というよりもっと一般的な意味で用いられ、暗に、異端の教えにコロサイ教会の人たちが振り回されていると、咎めたものと思われます。異端の教えに賛同して教会内にいくつもの派閥を作り上げ、互いに争っているのは、自分たちの主張を教会内の主流にしようと、その支配権を求めるものに他なりませんでしたが、パウロの目には、むしろ彼らはその異端の教えに支配されていると見えたのでしょう。彼らがその支配から逃れるには、別のもっと大きな力あるものの庇護に身を寄せなければなりません。それが、都市国家という小さな権力同士がしのぎを削っていた古代社会に通用していた論理でした。恐らく、現代のいろいろな社会にも、そのような力関係がまかり通っているのでしょう。タリバンと戦っているアメリカに諂って支援軍隊を派遣しようなど、その典型かも知れません。しかしパウロは、他のどんな大国の力、立派な教えよりも遙かに優って人の心を動かすことの出来るものは、平和、しかもキリストの平和であると言うのです。断じて、争いではありません。パウロの意識の中には、恐らく、その平和の裏付けは前節で取り上げた〈結びの帯としての愛〉であるという思いがあったのではと思われます。イエスさまが赦し、愛してくださったところでの平和、十字架のもとでの平和と言って良いでしょう。もし私たちが、自分の力や知恵に思い上がることなく、イエスさまに罪赦された者たちであると神さまの前にへりくだるなら、そこに、ごく自然に愛も平和も芽生えて来るに違いありません。〈召されて一体となった〉というのも、イエスさまを信じる信仰のもとで一つ家族とされたことを指しているのではと思われます。教会とはまさに、その家族を指すのではないでしょうか。


U それ以上のこと

 ところで、少々疑問があります。12-17節が一つのまとまりあるものとして語られ、そこに13-14節の「赦し合いなさい。そして、その上に愛を着けなさい」と、この箇所の中心と思われる愛が語られているのに、パウロはまだ筆を置こうとはしません。「愛は結びの帯として完全なものです」と、イエスさまの赦しと愛は、他のあらゆるものを圧倒し、その赦しと愛を私たちの新しい生き方の範とすべきことを、たとえ、自分がどんなにそれにふさわしくなく、また、それが何十回裏切られようとも、回避すべきものではないと訴えています。〈完全〉とは、そんなパウロの思いを伝えるメッセージであると聞こえてきます。ところが、その愛を語った後に、彼はまだその続きを語ろうとしているのです。今聞いた「キリストの平和」は〈愛〉の延長と考えて差し支えないでしょうが、パウロは、それ以上のことを私たちに問いかけているように感じられるのです。探ってみたいと思います。

 今、イエスさまを信じる者たちの平和を考えてきましたが、「また、感謝の心を持つ人になりなさい」という15節後半部分は切り離されているようです。そして16-17節には、その感謝を中心主題として、「それ以上のこと」が語られているのでしょう。12節以降で聞いてきた「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の5項目も、また「赦し」や「愛」や「平和」も、私たちのイエスさまを信じる信仰の具体的、しかもきわめて重要な課題です。パウロは、それらを教会における信仰者たちの交わりの問題として勧めてきました。ですからその中心は、赦しであり愛であり平和でした。これまで彼は、その交わりの中で、イエスさまを信じる者たちの在り方を中心に語ってきたのですが、今、その交わりから離れ、もっと大切な、交わり以上のものを見つめるようにと勧めはじめるのです。交わり以上に大切なもの、教会における愛の交わり以上に大切なもの、現代の私たちも、それを信仰の中心のこととして心を傾け、目を注いでいかなければならないのでしょう。


V 神さまに繋がって

 15-17節に、パウロがその中心として掲げるものがあるようです。「感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」 この短いところに、感謝ということばが3回も繰り返されています。

 〈感謝〉を考える前に〈キリストのことば〉と〈賛美〉という二つのことを見ておきたいと思います。
 まず〈キリストのことば〉からですが、〈豊かに〉とは”たくさん”ということば(聖書知識)の量のことではなく、イエスさまにつけられる形容詞と考えたほうが良いでしょう。私たちは、自分の中をイエスさまのことで一杯にしていく豊かさに、どう考えても欠けだらけです。自分の豊かさではない、計り知れないほど豊かな恵みは、イエスさまの中にこそ詰まっていて、それをしっかり受け止めなさいと聞こえてくるのです。すると、ことばは、単なることばや教えではない、イエスさまの人格そのものであると分かってくるのではないでしょうか。イエスさまご自身を受け止めるその時、私たちは互いに教え合い、戒め合うことができると知らなければなりません。

 そして、もう一つの〈賛美〉ですが、詩篇は以前からユダヤ人たちシナゴクの礼拝で歌われ、教会はその麗しい伝統を引き継ぎ、迫害や困難の時代にも、集まって賛美する喜びを共にしていたのでしょう。そしてパウロは、その賛美の声に、”心から溢れてくる”ものを加えるように勧めます。〈霊の歌〉とあるのはそのことと思われます。或る人がこれを現代の黒人霊歌になぞらえていますが、信仰とは、〈キリストのことば〉に裏打ちされた理知的なものに、燃えるような熱い心が溢れてくるものと覚えていきたいのです。パウロのこの勧めを現代風に言い換えるなら、神さまのことばである聖書に教えられ、その上に私たちの信仰をきっちりと組み上げていく、それは聖書信仰ということです。しかも、そこに、聖霊なる神さまに魂を揺り動かされた熱い思いが沸き上がっていく信仰です。〈キリストのことば〉と〈賛美〉、更に付け加えるなら〈祈り〉も、私たちの信仰を内側から形作っていくものであり、そのような信仰の中心部分は、決して私たちから出てくるものではなく、神さまご自身の働きと言えるのではないでしょうか。パウロが、「それ以上のこと」として勧めたかった「神さまに繋がっていなさい」というメッセージが、ここから聞こえてくるようです。

 「感謝にあふれて心から神に感謝しなさい」「主によって父なる神に感謝しなさい」とあります。神さまに繋がるために、パウロは迷わず「感謝」を挙げています。パウロは、そこに神さまの恵みを感じ取って欲しいと願っているのでしょう。感謝(ユーカリスト)には恵み(カリス)が隠されていると覚えてほしいのです。パウロは15,16,17節と、どの箇所にも「キリストの平和が」「キリストのことばを」「主イエスの名によって」とイエスさまのことを挙げ、その恵みがイエスさまによって来たものであると明らかにしています。イエスさまを通して神さまに繋がっていて欲しいと、それがパウロの心からの願いでした。兄弟姉妹の交わりに愛や赦しや平和が根付いていくのも、そのような神さまとの繋がりが確立してのことではないでしょうか。「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を」(詩篇149:1)とあります。躍動感溢れる彼ら昔の聖徒たちの信仰に倣いたいものです。