コロサイ人への手紙

18 愛をまとって

コロサイ書 3:12−14
レビ記 19:13−18
T 上を目指して

 イエスさまを信じ、罪赦されてイエスさまとともによみがえった、新しいいのちに生かされた者として、どのようにそのいのちを生かしていくのか、パウロからの具体的な問いかけの2回目です。少し細切れになりますが、今朝は3:12-14から見ていきたいと思います。

 「それゆえ」(12)と始まります。理屈っぽいことを言うようですが、これは、直接には、「(あなたがたは)新しい人を着たのです」(3:5-11)「それゆえ」と続いて、信仰者の新しい生き方への勧めが展開されるのです。しかし、この接続詞を手掛かりに、この手紙全体におけるパウロの意識を探っていきますと、「新しい」ということの内容が浮かび上がり、目を見張るような高い水準を志す、その生き方の理由が明らかになってくるのではないかと思われます。これは、この手紙の中に用いられた5回目の接続詞であって(2:6, 2:16, 3:1, 3:5, 3:12)、懸かり具合から注目したい箇所が2つあります。1つは3:1の「あなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい」ですが、これに5節の「ですから」と12節の「それゆえ」以下の勧めが続きます。まず、罪への高い意識を持つように勧められ、続いて具体的、積極的な生き方が勧められていきます。ここから、クリスチャンの新しい生き方は、これまでの価値観から離れ、「上にあるもの」という私たち(人間)とは全く次元の違う、神さまの水準での生き方をするようにというメッセージが聞こえてくるようです。

 そしてもう一つは、この接続詞が最初に用いられる2:6の「あなたがたは、このように主キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」です。ここに「それゆえに」と続いていくのです。〈受け入れた〉は、恐らく、2:5の「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます」という、〈イエスさまを信じる信仰〉を指していると思われます。私たちを「上」という神さまの次元にまで連れて行き、「それゆえに」私たちを、これまでの自分とは違う者として、新しい生き方に立たせてくださる、それがイエスさまを信じる信仰なのでしょう。簡潔に言いますと、今パウロは、具体的な新しい生き方を勧めようとしています。それは、私たち人間の水準をはるかに超えるものかも知れませんが、しかし、私たちには、その生き方を可能にしてくださる方がついていてくださるのです。そのお方とともに歩みながら、神さまの価値観である「上」を目指す、新しい生き方を志していきたいと願わされます。


U 愛されている者として

 今朝のテキストから、二つのメッセージが聞こえてきます。第一は12-13節です。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」

 ここに2つの「〜しなさい」という勧めがあります。1つは「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」、もう1つは「互いに忍び合い、赦し合いなさい」です。初めの5項目については、ほとんど説明を要しないでしょう。慈愛も謙遜も柔和も寛容も、どれもが、クリスチャンとはそのような優しい心溢れる人たちであると、世間の人たちから高い評価を勝ち取ってきた、信仰の先輩者たちの歩みがそのようであったからです。ただ〈同情心〉のことですが、これは新改訳の訳だけで、他はほとんど〈憐れみの心〉となっています。その憐れみの心を最初に挙げているのは、「イエスさまがそうであったように(13節参照)、あなたがたも憐れみの心を自分の内面に育てなさい。そうすれば、慈愛や謙遜ばかりでなく、あらゆる良いものがあなたの生き方の中に増し加わり、自然とイエスさまに倣うもの(クリスチャン)になっていきます」ということではないでしょうか。病人を癒すなど、イエスさまの様々な行動を突き動かした動機は、憐れみの心でした。そのように聞いてきますと、もう一つの「互いに忍び合い、赦し合いなさい」も、「イエスさまに倣う」ことが基準の、新しい生き方であると納得できると思います。これを別項目にしたのは、イエスさまの中心が十字架だったからでしょう。

 ところでパウロは、この勧めの前に「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」と言いますが、これこそ、私たちの新しい生き方を可能にするものではないでしょうか。なぜなら、この前提こそ、ちっぽけな私たちを神さまの恩寵の中に招き入れ、新しいいのちに生かす宣言だからです。私たちは、神さまのものとされ、そこから新しい生き方を志す者とされました。他のことをすべて忘れても、ただ、この一点を覚えて頂きたいのです。


V 愛をまとって

 パウロが勧めるクリスチャンの新しい生き方で、2番目に見ていきたいのは14節です。
 「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」

 結びの帯という表現を用いているのは、イエスさまの教会を念頭に置いていたからでしょう。この手紙の初めにパウロは、「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いた」(1:4)と彼らを賞賛しましたが、恐らく、それは逆の言い方であって、コロサイ教会に今、その愛が失われつつあることが、彼らの信仰の最も大きな問題点であると心配していたのだと思われます。恐らくパウロは、コロサイ教会ばかりでなく、この愛の問題が今後すべての教会とキリスト教信仰の方向を定める最大の課題であると、そこに強い関心を寄せ、「これらすべての上に愛を着けなさい」と記しました。イエスさまを信じる信仰の中心は愛であると、使徒時代以降、現代に至るまで、キリスト教信仰を愛によって方向づけ、牽引したのは、実にパウロであったと言えるでしょう。

 ところで、「愛を着けなさい」(「着ける」という言葉はギリシャ語原典では14節にはなく、12節の「着ける」に結びつけている)と言われます。これは、「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(3:9-10)に合わせて言っているのでしょう。つまり、外部からも見える形を伴うことが、「新しい人」にも「愛」にも求められるということです。信仰が具体的な愛を伴うことは、自然なことでした。そしてそれは、初期教会ですでに実践されていたのでしょう。だからこそ、あれほど教会内に異端が跋扈し、内部にも外部にも困難な問題が山積し、迫害され、カタコンベなど地下に潜るような状況に長く置かれていたにもかかわらず、その中を生き延び、却って、迫害者や異端など、彼らを受け入れようとしなかった人たちからも尊敬され、「これこそ唯一の救いの道」と支持されて、仲間に加わる人たちが多くなっていったのです。それは、先輩たちが愛の人だったからではないでしょうか。

 そして、クリスチャンが愛の人であるというその方向は、現代も大方守られています。大方とは、今日の教会で、愛が自分の考えに同調する仲間だけに向けられる場合が多くなっている、と心配になる事例が増えているからです。それは自分に一番当てはまることだと思うのですが、自分たちだけの小宇宙に閉じこもる愛ではなく、私たちを愛し、赦してくださったイエスさまに倣い、互いに愛し合い、赦し合う生き方を覚えていきたいと思います。初代の先輩たちばかりでなく、宗教改革者たちもその伝統を引継ぎ、更に多くの先輩たちが心を傾けて聖書を読み、そして、そこに語られているイエスさまの愛をまとっていました。私たちの代でその愛を失ってはなならないと、今、一番鋭く問いかけられているもの、それは愛であると受け止めていきたいのです。