コロサイ人への手紙

17 新しいいのちに

コロサイ書 3:5−11
イザヤ書  40:28−31
T 私たちを取り巻いて

 信仰者の〈現在〉は、イエスさまとともによみがえった者たちの新しいいのちの生き方にあると、3章初めで位置づけたパウロは、いよいよその生き方の具体的な勧めに入っていきます。今朝は、彼がまず第一に描こうとしている主題、「古い人と新しい人」を聞いていきたいと思います。

 「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行ない、不潔な行ない、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません」(5-9a新共同訳) 最初に聞きたいことは、パウロが、クリスチャンとしての生き方から捨てるように勧めるものを、5節と8節の二カ所に分けて取り上げているということです。何故別々にしているのか、興味を惹くところです。

 まず5節からです。「地上的なもの、すなわち、みだらな行ない、不潔な行ない、情欲、貪欲」とありますが、これらはみな性的欲望に関するものと言っていいでしょう。先に2:20-23で、当時、コロサイ市などに入り込んでいた東洋の汎神論が、さまざまな混合宗教を形造っていたと見ましたが、それは神秘的シャーマイズムと言われるものだったと思われます。それらは巫女(シャーマン)を有しており、彼女たちの売春が信者獲得の一翼を担っていました。恐らく、グノーシスもそういった宗教の一つだったのでしょう。ここを締めくくるものは、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」という言葉です。それは、彼らの宗教意識が、救いや希望といった本来神さまから来るものではなく、自分の欲望を満たすための、刹那的ご利益に終始していたことを指しているとして間違いありません。それを「捨て去りなさい」(新改訳「殺してしまいなさい」)と勧められていますが、イエスさまの十字架に罪贖われた者は、それらの罪も十字架にかけた筈です。しかしながら、そのような欲望が私たちから全くなくなったとは言えません。しかし、神さまの怒りが向けられるそのような罪は、根本的に私たちから取り去られたと聞いて頂きたいのです。


U 内面を見つめて

 繰り返します。5節で言われる罪は、宗教がらみの社会的問題と考えて良いでしょう。ところで、その罪を罪として認め、そんな世間の風潮に乗ってしまった責任は、もちろん、自分の欲望からだと知らなければなりません。しかし、本当に根の深い罪は、そのような世間一般が認識する見えるところにある〈罪〉ではなく、むしろ、私たちが全力を傾けて捨てるよう戦っていくべき罪は8-9節にあると、パウロはそのもう一つを真の問題にしているようです。

 「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」(8)〈怒り、憤り、悪意〉は、いづれも特定の誰か(何か)に向かってのものですが、それは表には出てこず、私たちの内面に鬱積していきます。しばしば、にこにこ笑っている人の内面に、憎しみや反感がどす黒く渦巻いていることがあります。特に現代の犯罪で、犯人像が「真面目で、おとなしい」優良な模範生のように言われたりすることが多いのは、その辺りを物語るものではないでしょうか。そして、その内面の鬱積した罪の思いは、実は、私たち自身のものでもあると思うのです。私たちの持つ最も根元的な罪は、外部から入り込んでくるものではなく、私たち自身の内面に渦巻く欲望であり、ねたみであり、怒りだと覚えていきたいのです。そして、その鬱積した思いが、やがてその対象か疑似対象に向かってほとばしっていくのです。

 パウロがこれらの罪を相手を伴うものに限定しているのは、異端が入り込んだために、コロサイ教会に蔓延していた争いが意識の中心にあったためと思われます。もっとも、5節に言われる罪の中心が〈欲望〉なのは、社会的な罪の根底にも、自分だけが問われる罪の中心問題があったということなのでしょう。私たちが捨てなければならない罪は、私たちの内面にあって、溢れ出ていくものなのです。その意味で〈そしり、口から出る恥ずべき言葉〉も、私たちの内面に鬱積した思いが溢れたものと言えそうです。言葉は、断じて人格と無関係ではありません。「互いにうそをついてはならない」と、ここを結論づけたような言葉があるのも、その辺りを意識してのことと思われます。〈うそ〉は当時のローマ支配の社会で、個々人の赦されない問題とされていました。そこに、乱暴だったり、欲望むき出しだったりと、どちらかと言うと雑な民族だったローマ人の意外な価値観が反映されているようです。しかし、そう指摘されることで、互いに偽りを重ねるようになっていたコロサイ教会の人たちは、すぐに理屈抜きで恥じ入ったのではないかと想像するのです。そして、その上にイエスさまを信じる者たちの生き方が重なっていくように、それがパウロの願いでした。


V 新しいいのちに

 パウロは今、そういった社会的な罪にしろ、個々人の内面に鬱積する罪にしろ、その罪を纏う者たちは、たとえクリスチャンらしく装って教会に加わっていても、依然イエスさまの救いを知らなかった時の状態にあり、それが神さまの怒りの対象だと主張してやみません。その罪を二つに分けて教えたのは、自分に迫って来るさまざまな誘惑があることと、より深い罪の根元が内在する自分の内側を、鋭い目をもって見つめて欲しかったからでしょう。現代の私たちも、イエスさまの救いを聞く時に、自分がどれほど罪にまみれた者であるかを、何よりも鋭く見つめておかなければなりません。このことは、これまで何度も聞いてきたことですが、更に何度も繰り返し聞いていく必要があります。そして、私たちが罪ある者であると、心を突き刺すような鋭い痛みとともに受け入れた時、イエスさまの十字架が「赦し・救い」という神さまの明確なメッセージとなって、私たちの心に届いてくるのではないでしょうか。罪を認めるとは、イエスさまの十字架を聞くところから始まるのです。なぜなら、赦しを聞くことで、始めて、その罪の重さを聞くことになるからです。

 罪に流される古いいのちは、イエスさまとともに十字架につけられました。そう聞いた者たちに、パウロは宣言します。「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(9-10) 新共同訳では「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」となっています。ここに、パウロがこの書簡1章で取り上げた「イエスさまは創造主」という意識が現われているようです。十字架にかかり、私たちを罪から救い出してくださったお方は、また私たちを新しい者に再創造してくださるのです。当時、パウロを異邦人への使徒として送り出した彼の母教会・アンテオケ教会で初めて言われるようになった、「イエスさまを信じる者たちはクリスチアノス(Christian・キリストに似た者)」(使徒11:26)という呼び名(あだ名)が、コロサイ教会にも定着していました。パウロは彼らに、その意味の重さを感じ取って欲しかったのではと思います。聖なること、愛あること、何よりも互いに赦し合う者となることにおいて、彼らがイエスさまに倣う者となって欲しいと願っているのです。「クリスチャンである」ということは、洗礼を受けた受けないに関わらず、ただ、「あなたを新しくした」と言われるイエスさまの宣言を聞き、その新しいいのちにふさわしい生き方を志すかどうかにかかっているのです。

これは宣言と聞いて頂きたいのです。「そこには、ギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別なありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(11) あなたに十字架の救い主・イエスさまがおられると聞こえるでしょうか。