コロサイ人への手紙

16 主を慕いあえぐ

コロサイ書 3:1−4
詩篇 42:1−4
T どのような信仰に

 この書簡は、コロサイ教会に入り込んでいたグノーシスやユダヤ主義といった異端から、信仰者たちを救い出し、彼らをイエスさまを信じる信仰に立ち戻らせるために書き送られました。ところが、異端に対する戦いを本格的に繰り広げた2章でも、如何なる異端もイエスさまの福音に敵対出来る存在ではないと、パウロは、異端のことよりクリスチャンへの「どのように信仰に立っているか」という問いかけに終始し、ほんの数回異端の中心点を取り上げた後、この戦いを終えてしまいます。3章からは、異端など全く関係ないかのように、彼が本来のテーマとするコロサイ教会の人たちへの信仰の勧めを展開し始めます。前回、「キリストとともに死んだのなら、また、キリストとともに生きるのである」(2:20)と聞きましたが、その生き方は、異端に狙われるなどの非常時より、普段着の中で、どのような信仰に立っていなければならないか、そのほうがずっと大切だというパウロの意識なのでしょう。3章以降、後半に、その問いかけが集中してきます。

 「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます」(1) 「キリストとともに生きる」その出発点をパウロは、まず「イエスさまとともによみがえらされた」者であるところから始めようとしています。少し整理しておきたいのですが、彼は、イエスさまのよみがえりがコロサイ教会の人たちに受け入れられていることを前提にしているようです。「不可解!」と異議を申し立てる現代人から見ると不思議なことですが、恐らく彼らは、パウロというその事実に遭遇した証人を信頼していましたから、異議申し立てを必要としなかったのでしょう。ところが、そのイエスさまよみがえりの事実を認めながら、彼らはそれを単なる出来事と聞き流していました。それは、現代人の多くが、漠然と「神は存在するかも」としながら、そんなことは自分とは無関係であると思っていることと似ています。聖書が証言するイエスさまよみがえりの出来事を事実と受け止め、それ以上に、あなたにもそのよみがえりの希望が約束されていると、自分自身のこととして聞いて頂きたいのです。


U 神さまの宣言を聞いて

 コロサイ教会の人たちは、一応の事実として受け止めたイエスさまのよみがえりより、そのイエスさまとともに、自分たちがよみがえらされた者であると言われることに、とまどいを感じているのでしょう。彼らのイエスさまを信じる信仰に綻びが生じ始めたのは、そこに原因があったのではないでしょうか。彼らは、イエスさまから救われた者であるということに、今いち自信を持つことが出来なかったのです。その彼らの、クリスチャンとしての信仰の揺らぎが、異端にとって格好の標的になりました。そして、当時のコロサイ教会の人たちばかりでなく、現代でも同じような葛藤に悩んでいる人たちがいます。どこに立つ信仰かを明確にしておかなければ、異端とは言えないまでも、目新しい教えが数多く出現している今日、そちらに惹かれていくことになりかねません。

 パウロがここで取り上げようとしているのは、イエスさまのよみがえりに連なる信仰者たちの現在ということです。その状態を、彼はこう宣言します。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(新共同訳3節) 〈神の内に隠されている〉とは、信仰者たちが、まだ地上の肉体に縛られていて、神さまの国の市民権を持つ者としての特権、つまり、栄光の体を纏うとか、イエスさまのお顔を拝しながら、涙のない永遠を生きる状態にないことを言っているのでしょう。しかしそれは、地上での苦労をまだ背負っているということであって、「私たちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)と言われるように、市民権自体はすでに確定しているのです。「イエスさまとともによみがえった」と言われるのは、そのことを指しています。「イエスさまを信じた者たちは、天国の市民として新しいいのちを持つ者となった」と神さまに宣言された信仰者たちの、それが現在だと聞いて欲しいのです。

 ここでパウロは、慎重にことばを選んで、「あなたがたは死んだのであって」と、2:20に続いてもう一度イエスさまの十字架を思い出させようとしています。イエスさまのよみがえりに連なり、神さまの国の市民として新しく生きる者となるためには、「イエスさまの十字架の故にあなたの罪を赦そう」という神さまの恵みの宣言を、聞いたかどうかにかかっているのではないでしょうか。


V 主を慕いあえぐ

 今、信仰者たちの、イエスさまとともによみがえった〈現在〉のことを聞きましたが、パウロはここで、それと共に、イエスさまの現在についても証言しようとします。二つの記事があります。「そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます」(1)「キリストが現われると、あなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」(3) ここでパウロは、イエスさまと信仰者の〈現在〉が単なる状態ではなく、私たちの信仰と希望の事柄であるというメッセージを送っているのではないかと感じます。記事自体、少し絡み合っていますので、慎重に聞いていきましょう。

 3節は、現在のことより、これから起こるであろう終末のことが語られているようです。しかしそれは、神さまの約束という意味で、確定した出来事となっています。実際にはまだ起こっていない事を、確定しているがために、現在のことして聞かなければならないのです。1節に言われるイエスさまの様子も、厳密には、誰も(パウロさえ)直接にお会いして確認したわけではありませんので、これはイエスさまご自身の証言なのでしょう。そして同様に、3節に言われる宣言も神さまの宣言であって、確定しているのです。イエスさまが神さまの右の座に着いておられ、そこからもう一度おいでになるとはどのような状態か、どんなに想像力を働かせても無駄でしょう。詳しく知りたければ、その様子を目撃することです。希望と信仰に立ち続け、神さまの約束の光栄に与づかる以外にありません。このメッセージの中心点は、イエスさまの現在の様子を事細かに説明することではなく、そんなことよりも、そこに私たちの希望と信仰の中心であるお方の約束があるのだと聞くべきではないでしょうか。恐らく、イエスさまが「神さまの右の座に着いておられる」というイメージも、その約束されたお方が、今も生きて、私たちの現在に関わりを持とうとしておられるということなのでしょう。イエスさまの現在は、終末というところで、私たちに会ってくださるための整えの最中であると聞こえてきます。そのお方の現在は、私たちの現在であり、また希望なのです。

 ところで、2章まではイエスさまの十字架が中心主題でした。「キリストとともに死んだ」(2:20)ということが、最も力を込めて語られたメッセージと聞いていいでしょう。ところが、3章以降は、イエスさまのよみがえりに連なる私たちのことが中心主題に据えられてきます。十字架がイエスさまを信じる者たちの最も大切なことは言うまでもありません。しかし、次に、十字架に罪赦された者の生き方が問われるのです。それが「キリストとともに生きる」ことであり、「上にあるものを求めなさい」という勧めになっているのです。ここには具体的なことが提供されているわけではなく、それはまだ隠されています。しかし、私たちの現在は、その上にあるものを求める生き方であると言っていいのでしょう。上にあるものを求める生き方、それは私たちが信仰をかけて挑んでいく戦いではないかと考えさせられます。クリスチャンという名のもとに縛られる一律の公式的生き方ではない、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)と歌った詩篇の記者の告白のように、熱い心を主に向けたいと願わされます。