コロサイ人への手紙

15 キリストとともに死んで

コロサイ書 2:20−23
イザヤ書  43:10−13
T 問いかけと聞きつつ

 異端との戦いに、パウロは本気で取り組み始めました。その戦いの第一弾が2:8、第二弾が2:16ですが、ユダヤ主義者たちの祭儀的要素の色濃い信仰の立ち方に異議を唱え、更に、「偽りの謙遜」という言い方で、グノーシスの魅力にも踏み込んでいきました。しかし、それらは結局、十字架とよみがえりのイエスさまを見つめない信仰でしかなく、彼らは、イエスさまがご自分の血をもって贖った教会さえ自己主張の場にしかしていません。しかし私たちは、イエスさまに結びついて、愛と祈りの中に歩もうではないかと、パウロの熱いメッセージが聞こえてきます。そしてパウロは、20節からもう一歩踏み込んで、異端への戦い第三弾に入っていくようです。

 パウロはこれまでの順序を変え、クリスチャンたちの生き方の勧めから始めます。「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな、味わうな、さわるな』というような定めに縛られるのですか」(20-21) 「キリストとともに死んで」と、非常に断片的な言い方ですが、パウロはここで、クリスチャンは何故クリスチャンなのかという、最も根元的な問いかけをしていると聞こえてきます。すでに何十回も何百回も言ってきたことですが、〈イエスさまが私たちの罪のために身代わりとして十字架に死んでくださった。あなたがたはその十字架とともに罪に死んだのである〉とは、その証言なのでしょう。このことをしっかりと受け止めるところから、愛も、謙遜も、また誰かと心を通わせることも、自分に問われていることとして聞いていくのです。愛も謙遜も誠実もそこから始まるのですから。今朝まず第一に、この点を覚えていきたいと思います。

 それはともかく、パウロは、こんなにも大切な点を極めて断片的な言い方に留めているのですが、それは、まず第一に異端の問題点を明らかにすることに集中し、信仰者の生き方については、改めて取り上げるつもりだからではと思われます。実際、これ以後、異端への直接の言及はなく、3章以降では、むしろ信仰者の生き方に力を込めていきます。そして、この異端への最後の攻撃の中でも覚えておきたいことですが、彼の攻撃は異端への直接のものではなく、その教えにどうして惑わされているのかという、信仰者たちへの問いかけであるという点です。私たち信仰者が、この問いかけに応えていかなければならないことは言うまでもないでしょう。


U イエスさまを基準に

 異端の教えがどのようなものか、パウロが更に踏み込んで指摘するところを聞いていきましょう。いくつかの繰り返しがあります。「この世の幼稚な教え」は2:8の繰り返し、これは「世のもろもろの霊力」(口語訳)ということであって、直接には天使礼拝を内容とするグノーシスを指しているのでしょうが、恐らくもっと広範囲な一種の宗教混合状態(シンクレティズム)を指しています。そんな訳の分からない異端がはびこっているという指摘なのでしょう。それは、私たち日本人には馴染みのある宗教意識で、その意味では代表的な言い方ですが、「いわしの頭も信心から」と言われてきました。改めてそう聞きますと、如何にも幼稚な教えと感じます。恐らく、その心情的な宗教観は、日本ばかりではなく、世界中で、今も昔も人々の心を捉えてきました。それは主として東洋の宗教、汎神論であって、シルクロード西側の終点(イスタンブール)に近いコロサイ教会のある小アジヤ地域に多く入り込んでいたものと思われます。そしてパウロは、この神秘的な混合宗教に、もう一つの教え、「手をつけるな、味わうな、触れるな」という戒律(新共同訳)を持つ宗教(恐らくユダヤ主義)を加え、「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです」(22)と言います。「手をつけるな……」が具体的に何を指しているかは不明ですが、禁欲的或いは戒律的という意味では、「食べ物と飲み物」(2:16)ということの繰り返しなのでしょう。そしてそれは、多分、それらの教えを信奉する人たちにとって、自分たちの教えこそ唯一最高のものだったでしょうが、いづれも人間の頭の中で描き出した教え、宗教なのです。彼らが主張する違いなど、大同小異にすぎません。パウロはそれを、イエスさまという万物の創造主であり、十字架とよみがえりの救い主であるお方、そのお方こそ唯一の真の神さまであるとし、そのお方に出会ったことを基準に「彼らはこの世のものである」と断定し、私たちにもそのように受け止めて欲しいと願っているのです。まだ極めて消極的、断片的な言い方とはいえ、「キリストとともに死んで」という言い方には、パウロのそんな思いが込められていると聞こえてきます。


V キリストとともに死んで

 23節でパウロは、異端への攻撃に一応の終止符を打っているようです。「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の善行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」 恐らく、これがパウロの異端というものに対する結論なのでしょう。そのパウロの結論から聞いてみたいと思います。

 まず、ここにもこれまでの繰り返しが見られるのですが、「好き勝手な礼拝」は18節の「御使い礼拝」を指しているのでしょうし、「謙遜」も「自己卑下」(18)とあります。それは、前回聞いたように、グノーシスやユダヤ主義が、単なる哲学や戒律の教え以上に、自分を節制する苦行や如何にも真実味を帯びた愛に裏付けされる純度の高い教えと見られ、教会の人たちにも魅力あるものと映っていたということでしょう。「肉体の善行」(からだの苦行・口語訳)もその意味で理解できます。しかし、それは、実は偽りの謙遜であり、信ずべき実体が何もない礼拝であるという指摘です。そしてそれは、どんなにそれらに頼んでも、肉の欲望に対して何のききめもなく、罪からの救いをもたらしてくれることも断じてないとする、パウロのメッセージであると聞こえてきます。彼が繰り返し同じことを語っているのは、恐らく彼が、知恵と知識を傾けて検討に検討を重ね、その中心点にまで迫ってみたが、それ以上のことは何も出て来ないと感じたからではないかと思うのです。

 もう一度最初の「キリストとともに死んで」というところに戻ります。パウロは、「あなたがたはイエスさまの十字架に罪を贖われた者なのに、なぜ、いつまでも人間の規定や教えなどに縛られているのか」と問いかけているのでしょう。この「人間の規定や教え」に、私たちの生き方を当てはめてみると、他の人の教えや社会の規定ではなく、自分が選択した生き方が自分を縛っていたことに気づかされます。それは、「私はクリスチャンです」と言いながら、「自分教」に捕らわれている姿ではないでしょうか。「仕事」(私の、アルバイトや塾で子どもたちに勉強を教えること、伝道や牧会、礼拝メッセージの準備さえ)に全精力を奪い取られ、聞きたいことだけを聞く、まさに「好き勝手な礼拝」しか守ろうとしない自分ではなかったかと反省させられます。そのすべてが神さまの前で「罪」ではなかったかと。このメッセージを準備しながら、そんな自分を鋭く指摘され、お前は十字架から遠く離れた歩みをしている罪人ではないかと知らされる思いがしました。

 きっと、コロサイ教会の人たちも、そんなところに立たされていたのでしょう。パウロはそんな彼らに宣言しました。「あなたがたは、イエスさまの十字架とともに死んだではないか」と。それは同時に、現代の私たちへの宣言でもあります。その宣言に心から聞いていかなければと思います。イエスさまの十字架、十字架の信仰に立つ者でありたいと願います。その信仰に立つなら、どんな異端も、いかなる世の喧噪も、私たちの肉の生き方さえ、私たちをイエスさまから引き離すことはないでしょう。イエスさまとともに死んだ者は、イエスさまとともに生きる者とされたからです。