コロサイ人への手紙

14 愛と祈りの中で

コロサイ書 2:16−19
申命記 6:5 レビ記 19:17
T 形だけの信仰ではなく

 パウロはこの書簡でコロサイ教会に巣くう異端に戦いを挑んできましたが、その戦いが2章8節から本格化してきました。ただ、パウロは、異端そのもののより、私たちの信じている方のことをもっと覚えなければならないと考えているようで、この書簡ではずっと、異端のことよりイエスさまが中心に語られており、戦いが本格化してなお、その姿勢は変わりません。しかし、異端の中心くらいは把握しておく必要があるでしょう。そのこととも関連し、パウロは、2:16以下にくり広げられる戦いの第二弾で、異端の中心問題に触れようとしています。しかし、ここでもパウロの関心は異端にはなく、私たちクリスチャンたちの信仰の生き方でした。

 まず最初に、ユダヤ主義です。16節に「食べ物と飲み物」「祭りや新月や安息日」とあります。これは、旧約聖書のいろいろな規定を思い出させますが、恐らくそれとは別の、ユダヤ人たちが付け加えたこまごました宗教的儀式のことを指していると思われます。たとえば、過越の食事のやり方がタルムードのサダト篇に伝えられていますが、「犠牲にされた小羊の、その肉がよく焼けた時、まずハソレトという赤いソースの中に無酵パンを浸し、祝福を唱え、つづいて選ばれた民族のエジプト脱出を語る詩篇114編を朗読しながら、最初の盃を飲んだ。それから塩からい水の数滴を祖先の人々が流した涙の思い出として飲んだ。つぎに〈にがい草〉(わさび、月桂樹など)とともに小羊を食べる。盃が手から手へ渡されていき、三つ目の盃はおごそかにまわされ〈祝福の盃〉と言われた。その時、すべての参会者たちはハレルヤ、すなわち4つの詩篇115-118編からなる感謝の歌を歌い始めた……」という具合です。彼らにとって、イエスさまの十字架やよみがえりを信じるという魂に触れる内面的なことより、教会での宗教的儀式を厳格に行なうことのほうずっと大切でした。恐らく、エルサレムで決定されたユダヤ教式礼拝様式とか、祭りの方法とかが各地のユダヤ人たちに通達されていたのでしょう。そして、それを通達通りに行なうことが信仰であると考えていた人たちにとって、イエスさまを信じる者たちの礼拝や祈りは、如何にも宗教的雰囲気に乏しく、宗教的な堕落と見えたのではないでしょうか。教会の多くの人たちは、その仲間に加わり、彼らに批判されることを嫌って、形だけの礼拝遵守や祈りや献金といった、見せかけのクリスチャンになっていたのではないかと思われます。2:16は「(そのことについて)、だれにもあたがたを批評させてはなりません」と続きますが、パウロの「形式信仰に陥るな」という第一の意図が見えてきます。パウロは、彼らの中心問題が、イエスさまを信じる信仰とは遠くかけ離れていることを鋭く洞察したのでしょう。現代の私たちも、ともすれば、そのような形だけの信仰に陥る危険性を持つかも知れないと、心しなければなりません。


U イエスさまに

 ユダヤ人の儀式宗教的な傾向は、旧約聖書レビ記などにある祭儀的要素から来ていると思われます。ですから彼らには、過越祭に屠られる小羊がメシヤを指していることは良く分かっていた筈です。長い間メシヤを待ち続けていたのですから。しかし、そのメシヤがイエスさまであるとは認めないのです。そして、クリスチャンになったユダヤ人たちも、イエスさまをメシヤとして受け入れはしましたが、その祭儀宗教から抜け出すことが出来ず、旧約聖書の祭儀はイエスさまを指し示しているというところまで理解が進んでいかないのです。彼らは祭儀とイエスさまとを別々に切り離し、本来イエスさまを崇めるはずの教会の礼拝で、ひたすら祭儀だけを重んじようとしているのです。パウロはそれを見抜き、「これら(彼らの行なっている祭儀)は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」(17)と教えました。パウロは、他の書簡では何回も用いている「キリスト・イエス」(イエスはキリストであるという告白)という言い方を、この書簡では3回用いるだけで、他はすべてメシヤのギリシャ語訳「キリスト」を用いています。余計な警戒心を与えないためでしょうか、〈イエスさま〉を省いています。しかし彼は、「十字架の血によって」(1:20)と証言し、なんとか彼らに、キリストであるイエスさまを見て欲しいと願っているようです。

 そして彼は、イエスさまに結びついて欲しいという願いを、もう一つ異端のことでも切望しています。「(彼ら異端は)頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。(しかしあなたがたは)この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(19) 体全体とは、イエスさまの教会を意識してのことでしょう。それは決して、すぐに争いに走る地域教会のことではありません。〈イエスさまの教会!〉そこを見つめる視点こそ求められていると、現代の私たちも知らなければなりません。


V 愛と祈りの中で

 パウロは、もう一つの異端の中心問題を取り上げ、そこからイエスさまを信じる信仰の中心点に入ろうとしています。まず、その異端から見ていきましょう。この箇所は、比較的良くまとめていると思われますので、新共同訳で見ていきます。「あなたがたは、偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけです」(18-19a)

 ここに上げられている異端は、グノーシスのことです。この異端についてはこれまでも何回か触れてきましたが、どこかその中心をずれたところで見てきたようです。今、パウロが真正面から戦いを挑んでいるここで、パウロがこの異端をどのように見ていたか、この教えについて改めて取り組んでおきたいと思います。「偽りの謙遜」という何気ない言葉ですが、それに絞って見ていきます。

 グノーシスとはギリシャ語で「知恵」または「知識」という意味ですが、当時のギリシャ哲学が修辞学(如何にして自分の主張を押し通すことが出来るかを追求する)に偏っていく中で、イエスさまを最高のアイオーン(天使)とする天使礼拝に集約された宇宙の元素崇拝というギリシャ的な思惟の産物であっても、それは単なる知恵をもてあそぶ哲学ではなく、何よりも自分を節制する禁欲や愛を伴う、極めて宗教的純度の高いものと見られていました。それを彼らは宗教として身につけていたのでしょう。ですからそこで、もう一つの異端・ユダヤ主義者たちと波長が合い、それはコロサイ教会の人たちにも魅力あるものと映ったのではと想像します。しかし、どんなに優れたものに見えたとしても、それは偽りの謙遜、偽りの愛でしかないと、パウロはイエスさまの十字架の愛に立って洞察していくのです。「幻で見たことを頼りとし」とは、彼らの天使礼拝が実態のない秘儀宗教であると指摘していると思われますが、それは、一種の神懸かり状態になる宗教なのでしょう。それをパウロは「キリストに結びついていない」と言い、十字架に私たちの罪を赦し、よみがえって私たちの希望となってくださった、救い主・イエスさまという方を持たない彼らの宗教は、虚像にすぎないと指摘しているのです。何かを見つめようとするとき、パウロのように、このイエスさまという十字架とよみがえりの実像に立って判断する目を養っておきたいと思うのです。

 「(キリストという)頭に結びつく」とは、そのようなイエスさまの救いをしっかりと受け止めていくことではないでしょうか。そして、頭という言い方には、「イエスさまの教会」も意識されているようです。その意味で教会は、信仰者たちが集まって礼拝や奉仕など、宗教活動をする群れというのではなく、信仰者それぞれがイエスさまの体の一部分として結び合わされた、私たちの救いの本質的な部分を受け持っているのです。その節や筋という私たちは、イエスさまに贖われた者としての愛や祈りをもって互いに補い合うことで、イエスさまに結びついているのです。「心を尽くして主を愛し、隣人を愛せよ」とあるように、その愛と祈りの中で成長していきたいものです。