コロサイ人への手紙

13 イエスさまの背丈に(2)

コロサイ書 2:11−15
詩篇 119:9−16
T イエスさまの福音に

 先週は8-10節から、パウロが異端との戦いに本腰を入れ始めたと見ました。本来、ここは15節まで一気に読み進むべきところでしょうし、この書簡をパウロから預かったテキコが教会で語ったメッセージも、恐らく8-15節までを取り上げたのであろうと想像します。しかし、現代の私たちにとって、この箇所は面倒な言葉が多すぎますので、11節以下を別にしました。これは先週の続きですので、そのパウロのメッセージを思い出しながら聞いていきたいと思います。

 少しだけ先週聞いたことを繰り返します。「あのむなしい、だましごとの哲学」が人の言い伝えによるものであり、それは幼稚なものであると、パウロは、異端の教えがどんなに優れた知恵を装っていても、所詮、それは人間のものであり、底の浅いものでしかないと見抜いています。クリスチャンの基準は神さまなのです。その神さまを大人の背丈とするなら、イエスさまには神さまの満ち満ちたご性質が形をとって宿っており、その背丈に完全に達したお方であるという証言と聞きました。そのイエスさまを信じる私たちも、いつまでも幼稚なままでいることなく、成長した背丈にまで到達していこうではないかと、これはパウロの祈りでしょう。先週「イエスさまの背丈に」と、彼からのメッセージを聞きましたが、11-15節では、これが更に展開されていきます。

 「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」(11) 割礼と言ったのは、ユダヤ主義の教えを意識してのことでしょう。当時のユダヤ人たちは、すでに律法を形式的に遵守しようとする律法主義に陥っていました。恐らく、王も預言者もなく、しかも海外に暮らす彼らは、神さまの選民であるという誇りを、伝統的な割礼を守ることで保持していました。クリスチャンとなって教会に居場所を得てもなおそれを忘れることなく、そればかりか、教会さえも自分たちの世界に引き込むことで、その居場所を確固たるものにしたかったのです。しかしパウロは、その割礼を「イエスさまの割礼」と言い換え、律法よりもイエスさまの福音に目を向けて欲しいと願います。「あなたがたは、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされた」と、これはパウロの宣言なのです。彼は、まず宣言するところから、「イエスさまの背丈に」到達する過程を明らかにしようとしているようです。


U 罪、そして……

 12節以降から、パウロの二つのメッセージを聞いてみたいと思います。第一のことは、「私たちは罪の中で死んだ者」という点です。これをテキストから抜き出しますと、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ」(12)「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに」(13)「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(14)「すべての支配と権威の武装」(15)ということでしょう。ここでパウロは罪をいろいろと言い換えていますので、私たちが罪ということを考える時の重要な目安になるのではないかと思われます。ここに見られるパウロの意識から、罪について考えてみたいと思います。

 一つは14節からです。「規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書」(新共同訳)と読んだほうが分かりやすいでしょう。証書とは債務証書、つまり借用証書のことです。これは、私たちが罪という神さまへの負債にがんじがらめに縛られている状態を言い、それは私たちを破産に追い込む証拠となっていました。恐らくパウロは、検察官(悪魔であろうか)が、私たちの「律法違反」という罪の事実を証拠として揃え、神さまに提出する様子を脳裏に描いたのではと思われます。罪とは、現代人がしばしば考えているような、私たち自身の良心の問題ではなく、神さまの前に差し出された私たちの起訴状に記載されている事実を指すと考えて良いでしょう。私たちのことを、微に入り細に渡って訴える者がいるのです。そして、私たちは確かに訴えられる事実を持っているということも忘れてはなりません。その事実をチェック出来るように、神さまから良心を頂いたのではと思うのです。

 そしてもう一つ、私たちが「すべての支配と権威の武装(のもとにある)」(15)ということです。この支配と権威を、エペソ6章にあるように、悪魔との戦いを感じさせる武装と結びつけることで、罪というものを根本的に神さまへの反抗と言っているのでしょう。コロサイ教会の人たちは異端の支配と権威のもとに置かれてしまいました。それは、悪魔の生き方、悪魔の力に従ったことを意味します。罪とは、私たちの神さまを見失った生き方と考えて良いでしょう。そして、その生き方は絶えず、勝ち誇った彼の告発にさらされ、その意味で私たちは、神さまの裁きの座に立つみじめな破滅者なのです。


V イエスさまの背丈に(2)

 罪のことは、パウロの第一のメッセージでした。罪にあるということが、どんなに惨めで希望のない状態であるか、ここから聞いていかなければなりません。しかしパウロは、ここでもう一つのメッセージを語ろうとしています。私たちは「キリストとともに生きる者である」というメッセージです。このメッセージを、12-15節に語られるイエスさまの福音に聞いていきたいと思います。分量から言いますと、「罪」を語るよりも、「キリストにある救い」を語ることのほうが圧倒的に多いのです。この手紙は、彼らコロサイ教会の人たちや私たちを裁くものではなく、その信仰の回復を願い、イエスさまとともに生きる者となって欲しいという、パウロの心からの願いを記したものなのです。

 パウロはまず最初に、「あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(12)と高らかに宣言します。それは、罪を告発されて神さまの裁きの座に立たされていた者、罪の中にもはや死んでいた者たちへの、希望と回復の宣言でした。「キリストとともに」とあるよみがえりは、滅ぶべき同じ肉体への生き返りではありません。イエスさまが「栄光のからだに」よみがえられたのと同じように、とパウロは証言します。「キリストは、万物をご自身に従わせることの御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3:21) 神さまのみ国に向かう新しいいのちへの始まりです。「キリストとともに生かしてくださった」(13)とあります。しかも私たちは、その新しいいのちを頂いて、華々しい歓迎を受けながら凱旋の行列(15)と共に、神さまの御国に向かうのです。それは、ローマ軍勝利の凱旋行列になぞらえられたのでしょう。道の両側に待ち受ける群衆は、もしかしたら、天使たちでしょうか。もはや、私たちを悪しき権威をもって支配した者は、そのすべての武装を解除され、神さまの裁きの座に引き出されるべく、捕虜となって引かれていくのです。イエスさまが彼らに打ち勝ったからです。よみがえりといい、新しいいのちといい、罪に死んだ者であった私たちがと、その凱旋の行列に加えられる光栄を思うと胸がいっぱいになるではありませんか。

 しかし、その光栄への道に、イエスさまの苦しみがあったことを忘れてはなりません。新しいいのちへの序曲が始まるために、パウロは「私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」(13-14)と語り、イエスさまの十字架がその序曲の中心であると位置づけるのです。考えて頂きたいのですが、よみがえりという信じがたい出来事に疑いを差し挟むことは簡単でしょう。しかし、まず、十字架から考えて頂きたいのです。イエスさまの福音を十字架から受け入れるなら、よみがえりはその延長線上にあります。パウロは今、「イエスさまの背丈に」と勧めているのですが、そのために、何よりも罪の赦しと光栄な新しいいのちへの招きに応えて欲しいと願っています。私たちの信仰の応答こそ、「イエスさまの背丈に」到達していくことではないでしょうか。