コロサイ人への手紙

12 イエスさまの背丈に

コロサイ書  2:8−10
詩篇  119:1−8
T 戦いの火ぶたを

 今朝は2:8-10からです。コロサイ書は、教会に入り込んで来た異端との戦いの書であると聞いてきました。その戦いが、ここ2:8で一気に膨らんできます。しかし、これまでパウロは、戦いが急すぎることのないよう、慎重に言葉を選びながら、少しづつその戦いを進めてきたと感じます。何故そんなに慎重に?と不思議に思うのですが、きっとパウロは、この戦いの本質を教会の人たちが理解出来るよう、時間をかけたのではないかと思うのです。

 この手紙をコロサイ教会に届けたのは、パウロの第三次伝道旅行からずっと同伴して来た若い伝道者テキコでした。彼はコロサイに何ヶ月も留まり、この手紙を読み聞かせたものと思われます。コピーなんてものがなかった時代です。何部かは書き写したでしょうが、とても全員に行き渡るほどではありません。それより、テキコなら、パウロが心を込めて書いたこの手紙の、その思いも一緒に伝えることが出来るはずと、「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう」(4:7)と記しました。テキコはこの手紙の詳細やパウロの真意を十分に聞いていましたから、きっと、現代の説教者がこの書簡を少しづつ区切りながら礼拝メッセージとして語っていくのと同じように、パウロが時間をかけたところを同じように時間をかけながら、メッセージとしてこれを取り次いだのではないかと想像するのです。勿論、現代のように、背景や言葉の意味など説明する必要はなかったでしょうから、全く同じということではありませんが、取り組み方はほぼ同じだったと考えて間違いないでしょう。すると、この2:8まで読み進んで来るには、私たちと同じほど時間がかかっているわけです。パウロは、それだけの時間をかけている間に、コロサイ教会の人たちは、イエスさまのことをもう一度考え直し、十字架の奥行きの深さを思い出してくれるにちがいない、そして、彼らの意識が整えられたところで、初めて異端との真っ向勝負に出ることが出来ると、考えたのではないでしょうか。そして、いよいよここまで来て、異端との戦いの火ぶたが切って落とされます。


U 異端の実態を

 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(8) ここに言われる〈むなしい、だましごとの哲学〉という言い方の中には、〈人の言い伝え〉と〈この世に属する幼稚な教え〉という二つの決定的な要素が含まれていると、パウロは強調しているようです。まず、その点に注目していきたいと思います。

 最初に〈人の言い伝え〉ですが、パウロには、ユダヤ主義が念頭にあったと思われます。当時のユダヤでは、旧約聖書より、ラビたち(少数の律法学者たちに対する尊称)の教えの書であるタルムードやミシュンナが生活により密着していたようです。つまり、聖書より彼らの言葉が重んじられていたのです。11節に〈割礼〉とあるのは、ユダヤ人を意識してのことで、恐らく、この〈人の言い伝え〉が、そのようなユダヤ人の伝承や教えであることは間違いありません。そして、この〈人の言い伝え〉は、聖書のメッセージを著しくねじ曲げて自分流に読むなら、現代の私たちにもそのまま当て嵌まります。それがイエスさまを信じる信仰の障害になると、ことさら説明の必要はないでしょう。

 二番目の〈この世に属する幼稚な教え〉ですが、これはグノーシスを指すもので、パウロはこの異端信仰との戦いに一層力を込めているようです。この新改訳の訳は分かりやすいのですが、少し曖昧さが残り、そんなパウロの対決姿勢が感じられないようです。その点、口語訳は「世のもろもろの霊力」と訳出し、そのほうが少々難解でも無難かも知れません。少しだけ触れておきましょう。霊とはもともとギリシャ世界の言い方で、宇宙の元素を意味し、当時、諸宗教が入り交じる宗教混合(シンクレティズム)が行われており、そこに元素信仰があったのではないかと言われています。それが信仰の初歩という意識だったのでしょう。しかしパウロは、教会の人たちに、異端信仰は宇宙元素に対するものであるなどと、本気で説明しようとは考えていなかったと思います。きっと、コロサイ教会の人たちは、本人たちでさえ訳の分からないそのような信仰に、それが神秘的な魅力となって、捕らえられたのではないかと想像します。実際、グノーシスのことは、どの本を読んでも違うもののように書かれています。パウロは、そんな訳の分からない実態を、さも本物であるかのように錯覚している人たちに、それは混乱の宗教だと言いたかったのではないでしょうか。だからこそ、「あのむなしい、だましごとの哲学」という言い方をしているのです。しかし、異端の教えを鋭く追求しながらも、パウロは、そんな人間の哲学・もろもろの霊力といったものを説明しようとしたのではなく、それがキリストに基づくものではないことをはっきりさせたいと願っている、と聞きべきではないでしょうか。


V イエスさまの背丈に

 今、私たちは、ものすごく発達した現代科学の恩恵に浴しています。医療技術のおかげでとても長生き出来るようになりましたし、発達した電化製品のおかげで実生活の何から何まで便利が当たり前の時代です。特に最近のパソコンの進歩には、目を見張るものがあります。信じられないほど膨大な情報を手に入れることが出来ますし、お月さまどころか、火星に行こうという時代です。そう考えますと、現代人が幼稚などとは決してないと思うのですが、案外、宗教という面では、大昔と何ら変わらない幼稚な部分を残しているのではと考え込んでしまいます。ただ、グノーシスにしてもユダヤ主義にしても、その教師たちは、自分たちが幼稚な考えに固執しているとは断じて思っていなかったでしょう。しかし、パウロは彼らの教えが幼稚であると断定します。

 何故でしょうか。彼は、その理由に、自分たちの信じるイエスさまのことを掲げます。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」(9-10) 〈神さまのご性質がイエスさまの中に満ち満ちている〉とありますが、これは、幼稚に対する大人の状態を言っていると考えていいでしょう。「満ち満ちている」とは器に物がぎゅうぎゅう詰めになった状態ですが、神秘的信仰や宗教的敬虔が際だっているとき、その人の内面を言うのにしばしばこうした表現が用いられました。それが背丈であっても、知識や人格の内容を指していると考えても一向に構わないわけで、ここではむしろ、そんなイエスさまのことが言われていると聞いたほうがいいと思われます。つまり、完全な大人の基準としての神さまの背丈を考えた時、イエスさまはその背丈に完全に達しているではないかと言う証言です。そして、異端も宗教という観点から、神さま(少々違った神さまでも構わない)を基準にしているのですが、つまり、イエスさまの教えと異端の教えと、同じ土俵に上げてのパウロの証言と聞かなければなりません。満ち満ちていると言われる時、イエスさまは十分に神さまを具現化した存在、つまり完全な大人であり、そのイエスさまの目で見るならば、彼ら異端の教えは如何にも幼稚なものではないかと言っているのです。

 イエスさまばかりではありません。〈あなたがた、私たちも、キリストにあって満ち満ちている〉とあるように、イエスさまの十字架に罪赦された者たちは、その救い主と同じ背丈に達していくのだと、これは、パウロというよりイエスさまからの宣言ではないでしょうか。きっとこれは、コロサイ教会の人たちに、いつまでも幼稚なままではなく、そのようなイエスさまの背丈、神さまの背丈にとどいて欲しいと願う、パウロの祈りが込められた記事ではなかったかと思うのです。私たちもそのような大人の信仰に成長していきたいですね。