コロサイ人への手紙

11 見張り台に立って

コロサイ書 2:6−7
 ハバクク書 2:1−3
T 私たちの誠実も

 パウロは、「イエスさまはどのような存在か」を主題に、いくつものことを話してきました。それは恐らく、グノーシスやユダヤ主義といった異端がコロサイ教会の奥深くに入り込んでいたためでしょう。彼らは、イエスさまの奥義である十字架やよみがえりという罪の贖いと救いの出来事には目もくれず、ひたすら、キリストは何者であるかと、哲学的な議論を繰り返し、或いは、自説を教会の主流とするために、派閥に分かれて醜い争いに明け暮れていたようです。パウロは、彼らのその議論に真っ向から戦いを挑み、イエスさまは創造の主であり、罪を贖う主であると、その存在論を展開します。そしてその最後に、イエスさまを信じる者たちが、信仰の応答として、どのような生き方をするのかが問われるのだと、イエスさま存在に関わる一端の意義を信仰者の姿勢に求めました。そのことを2節に、「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ」(新共同訳)と語り、感性と知性に愛を加えることで、キリスト者の在り方を方向づけたと言えるでしょう。

 このキリスト者の信仰姿勢に、パウロは更にいくつかのことを加えます。今朝のテキスト、6-7節からです。これは教会標語聖句として何回か取り上げましたので、それを読み返して頂きたいのですが、今朝は、別の視点からここを見ていきたいと思います。

 まず彼は、「あふれるばかり感謝しなさい」と繰り返します。感謝ということば、ユーカリストーというギリシャ語には、カリス(恵み)が含まれていることを思い出して頂きたいのですが、もちろん、それは神さまの恵みです。感謝という言葉は、2世紀の使徒後教父(多分、使徒の孫弟子)の時代に聖餐式を現わすものとなりましたが、私たちの罪のために十字架に死んでくださったイエスさまの恵みを「感謝」と受け止め、それが聖餐式の中心意識となったのではないかと思われます。恐らく、彼らの意識の中には、その神さまの恵みにどう応えるかという、「信仰告白」の意味が込められていたのでしょう。「溢れるばかり」とあります。感謝が内にあり、それが溢れたものかどうかは、見ている者たちに良く分かることではないでしょうか。「感謝」には、私たちの誠実さも問われていると覚えて頂きたいのです。


U 愛の広がりのために祈りを

 今朝は、その感謝ということでもう一つ。直接、感謝の核心に触れるものでないかも知れませんが、この感謝には、同時に、「あなたには、あなたの罪のために贖いとなり、救いとなってくださったお方がおられるか?」という、問いかけが含まれていると思われることです。そのお方を見つめていてこそ、私たちのうちに本物の感謝が溢れてくるのではないでしょうか。もし、そのお方を見失うなら、自分の正義や主張だけを振りかざした、同意しない者への憎悪だけを育てるという構図が生まれてしまうでしょう。そういったことが、コロサイ教会に生まれていたのではないかと思うのです。今、彼らの中に、異端の教えが渦巻き、多分、複数の教師たちを中心に派閥が生まれ、自分たちの主張を教会の主流にしようと、醜い争いが続いていたようです。この書簡で「愛」が強調されているのも、恐らく、それがどこかに消し飛ばされていたためと思われます。その姿は、現代という時代の、今の私たちに怖いほど重なって見えてきます。今、アメリカがテロの報復であると、たくさんの国々を巻き込みながら、テロ組織と見なすタリバンへの宣戦布告を行おうとしています。しかし、キリスト教国であると自他ともに認めているその国が、そのような自分たちだけの正義の論理で、貧しくとも誠実に暮らしている人たちを悲惨に追い込んでいくことのないように祈らなけれなりません。もしかすると、テロリズムへの憎悪だけで、世界を二分するほどの抗争に突っ走らないとも限らないからです。彼らが、キリスト教国であると自負するのなら、その愛と寛容を示して欲しいと願います。その愛と寛容こそ、真のテロ対策につながるものではないでしょうか。

 そして、少なくとも私たちクリスチャンは、イエスさまへの感謝がもっともっと世界中に広がっていくように願おうではありませんか。イエスさまは私たちのためばかりではなく、イエスさまのことを知らないこの人のためにも、あの人のためにも十字架に死んでくださったのですから。


V 見張り台に立って

 もう一つのことです。「キリストの中に根ざし」とあります。これは、旧約聖書に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ11:1)とある、ユダヤ人には良く知られたメシヤ預言を意識しながら語られたものと思われます。当時、多くのユダヤ人たちは、メシヤが何を教えているかを問題にしていました。しかし、一番大切なことは、その教えの何かを聞くことではなく、メシヤの存在そのものをどう受け止めるのか、ということでしょう。「キリストに根ざし」とは、私たちがキリストの教えを聞くのではなく、イエスさまを信じる信仰に生きることであると覚えて頂きたいのです。しばしば私たちには、その人が提供しようとする中心のことより、彼が語るほんの一部だけを自分の聞きたいように聞いて、「あの人こそメシヤだ」とか、「あの人についていけば間違いがない」とか、自分の中に一種の偶像(自分教)を作り上げてしまう傾向があるようです。イエスさまを信じる信仰にも、そんな傾向があります。気をつけたいところです。根ざさなければならないお方を、その中心で受け止めていかなければと、心に刻み込んでおきたいですね。

 「根ざす」には、「確立する」という意味が込められています。以前、ここに並べられている三つの言葉のうち、〈建てられ〉〈堅くし〉の二つが「今」のことを言うのに対し、〈根ざす〉はすでに確定し、継続していることだと聞きました。そのことをもう少し取り上げておきましょう。

 それは、私たちの信仰を確立していくことなのでしょうが、もう少し詳しく言いますと、イエスさまの救い主としての出来事がすでに確立しているのだから、動かすことの出来ないその事実の上に、私たちの信仰は立ち上げられていくのだと受け止めることです。私たちが確立していくのではなく、イエスさまがまず、ご自分サイドで私たちの救いを確立してくださいました。ですから、私たちもそのお方の恵みを頂いて、信仰を確かなものとしていくことが出来るのです。これは、クリスチャンの根本理解であると言わなければなりません。しかも、その基本を、今のことと聞いていくのです。「イエスさまの十字架の上に」という基本を忘れてしまったことが、異端の教えに侵略されたコロサイ教会の一番の問題点だったのではないでしょうか。その基本を基本とするのでなければ、イエスさま以外のことを、如何にもイエスさまのことらしく取り入れてしまうことになりかねません。現代の私たちの信仰にも当てはまる、重大な問題提起と言えるのではないでしょうか。

 そして、基本に立つとは、現在もそこに立っているかという問いかけと聞いていくことでしょう。その基本とは、「イエスさまの十字架」以外にありません。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(6)とある勧めは、その意味で言われているのです。十字架のイエスさまこそ、私たちの主、救い主なるお方です。イエスさまの十字架というフィルターを通して自分を見つめ、イエスさまの十字架の上に立って生きる決意をし、そこに根ざして学び、現代の行く末を見つめていきたいと願います。あたかも終末を迎えたかのように混乱し始めている現代の、今、神さまが私たちに何をされようとしているのか、ハバククのように見張り台に立つことが求められているのです。見張り台に立って、神さまが為そうとしておられることを、見つめていかなければなりません。クリスチャンは現代の預言者なのですから。そして、イエスさまの十字架こそ、その見張り台であると心に刻んでおきたいのです。