コロサイ人への手紙

10 主の愛に応える生き方を

コロサイ書  2:1−5
詩篇 23:1−6
T 心血を注いで

 自己宣伝かと勘違いしそうなほど、パウロは自分のことを語り続けます。先々週、先週と、そのことで彼の二つの意識を探ってみました。一つは、自分の姿勢をイエスさまに重ね合わせているということでした。「教会に仕える」(1:24)とは、彼にとって何よりも、イエスさまの愛の姿勢だったのでしょう。もう一つは、教会が今まさにイエスさまの教会として立てられようとしている時、パウロも執筆して出来上がりつつあった新約聖書を、旧約聖書と共に神さまのみことばとして聞いて欲しいということでした。そしてパウロは、ある種の危機感をもって、もう一つのことを語ろうとしています。それはイエスさまの中心とも言える事柄ではないかと思うのですが、聞いてみたいと思います。

 「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います」(2:1) まず、パウロの苦闘からです。小アジヤ南部、フルギヤ地方のリュコス川沿いに古くから栄えた三つの町、ラオデキヤ、コロサイ、ヒエラポリスに、エパフラスが心血を注いでイエスさまの福音を伝えた教会が立てられていました。失われてしまいましたが、パウロはこのラオデキヤ教会にも手紙を書き送っています。そして、「ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください」(4:16)とあるように、彼が諸教会に書き送った手紙は各地で回覧されていました。そのラオデキヤがコロサイと並べられています。更に「そのほか、直接私の顔を見たことのない人たちのために」とありますが、恐らく、グノーシスとユダヤ主義という当時大きな力を持ち始めた異端が、コロサイ教会ばかりでなく、その地方の諸教会にまで入り込んでいたことを示唆しているようです。パウロはこれらの異端を初期教会にとって重大問題と捉え、戦う決意をしているのでしょう。ここに言われる苦闘とは、信仰者たちが立つべきところを明らかにして欲しいと願いながら、心血を注いでこれらの手紙を彼のメッセージとして書き送った、そこに、「彼らを異端などに侵させてはなるまい」とするパウロの熱い思いがにじみ出ている、その苦闘であると理解しなければなりません。この書簡自体が、彼の苦闘の証しであると受け止めたいのです。


U 苦闘する信仰を

 「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです」(2) パウロが世界中を駆け巡ってイエスさまの福音を伝えてきたことは、各地の教会によくよく知られていました。そして、そのために、パウロが言うに言われぬ苦労をしてきたことも知られていましたから、そのようなパウロのために祈りが重ねられていたのでしょう。パウロの苦闘は彼らの励ましであり、彼らの祈りは「愛によって結び合わされ」た信仰者の絆に他なりません。パウロは純粋にイエスさまを知らせたいと願い、それだけの理由で働いてきたのです。恐らく、そんな願いを妨げるかのように、異なる教えが彼の行く先々で待ち受けていたと思われます。実はここに「異端との戦いに備えるために」など、一言もありません。ただパウロは、兄弟たちが「愛の絆に結び合わされる」ことを願い、「神さまの奥義であるキリストを真に知るように」と心から願っているのです。異端問題など、本当はどうでもいいことでした。異端とか世間のことなど抜きにして、私たちはイエスさまのことをもっと純粋な信仰姿勢から追い求めていかなくてはと思います。しかし、私たちの周りには、異なる福音が虎視眈々と獲物を狙う牙を研いでいます。パウロもそのことをよくよく承知していました。

 そのようなパウロの気持ちを考えるなら、異端問題とキリスト者の生き方とは全く関わりがないことが明らかでしょう。キリスト者の苦闘は、本来、人間の組織とか権力に対するものではなく、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と言われるように、イエスさまと私たちの間を遮るサタンとの戦いに根ざすものなのです。サタンの最大の武器は、私たち自身の内面に、疑いや不信の思いを生じさせることであると覚えなければなりません。戦いは私たち内面の事柄であると言えましょう。パウロは自分の苦闘に、信仰者が負わなければならない、内面の戦いを重ねているのです。

 私たちの内面の戦い、それは、「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されている」(3)とあるように、イエスさまに聞きながら勝ち取っていくものです。聖書に聞くとは、イエスさまに聞くことと同じ意味を持っているのです。それも、思い込みや独りよがりによってではなく、聖書が語るメッセージを、忠実に聞いていかなければならないということです。知恵とか知識は、グノーシスやユダヤ主義だけの専売ではありません。私たちこそ、主から頂く知恵と知識を駆使して聖書を読むのです。いい加減な思い込みで聖書を「ああだ、こうだ」ということは、神さまのことばをあなどるものではないでしょうか。パウロたちは心血を注いでこれを書き上げました。私たちもそのように魂を込めて聞いていきたいのですね。


V 主の愛に応える生き方を

 以前、コロサイ教会にはすでに醜い争いが渦巻いていたのではないかと触れました。「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです」(4)は、その辺りの事情を言うのでしょう。その議論には、異端の教師たちの主導権争いも含まれていただろうと想像します。その様子にいくらかでも気づくなら、それがどんなに醜い争いであるか分かるだろうと、そんなパウロの期待が込められて、5節にこう語られます。「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます」 これを皮肉と聞く必要はありません。イエスさまを信じる信仰を告白した者たちは、たとえ一時、信仰の危機に陥ったとしても、かならず立ち返るチャンスを持つからです。信仰者たちは誰も、そんな危機と回復の経験をしたことがあると思うのです。

 パウロは、信仰者たちが、「心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るように」(2) と、そこに立ち続けることを願っています。そこに立ち続けるなら、おのずと異端の何が問題であるかが分かって来るからです。

 「神の秘められた計画であるキリストを悟るように」(2・新共同訳)とあります。イエスさまの奥義・十字架とよみがえりの福音をしっかりと聞き直さなければならないと勧めているのでしょう。少なくとも私には「聞き直せ」と聞こえてきます。それをパウロは、「心を励まされ」「愛によって結び合わされ」「理解力を豊かに与えられ」(新共同訳)と、三つの面に渡って聞き直して欲しいと願っているようです。「感性と愛と理性によって聞き直せ」と言ってもいいでしょう。それは、私たちが神さまの前に立つ時に問われる全人格的信仰ではないでしょうか。イエスさまを信じる信仰とは、宗教心とか信心などという得体の知れないものではなく、私たちの全人格がイエスさまの福音を土台にして、如何に喜びある毎日を過ごし、正しく適切な判断や選択を行ない、しかも、隣人のことを自分よりも優先させる愛に生きようとするか、そのような生き方をすることで磨かれていく、それが私たちの信仰の中身であると思うのです。勿論、信仰は告白するものですが、その告白はそのような生き方に結実していくものでしょう。そしてそれは、異端とは関係なく、一人の真摯な求道者として追い求めるべきものであると聞いていきたいのです。それは6-7節にも繰り返されているのですが、次回にもう一度聞きたいところです。パウロは、イエスさまの奥義の中に、もう一つのことを加えたのです。私たち信仰者の生き方、それは、イエスさまが私たちとともにあることを願っているという、その存在の中心をなすと言えるではないでしょうか。私たちを愛してくださったイエスさまに愛をもって応えていく、その生き方を覚えたいと心から願います。