コロサイ人への手紙

1 愛の大きな者に

コロサイ書 1:1−2
詩篇 4:1
T 主に召し出されて

 コロサイ書の第一回目、冒頭からです。「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にあるように」(1-2) ここは、この手紙の発信人と受信人を明らかにして挨拶を送ったもので、13通あるパウロ書簡のいわゆる定番と言っていいでしょう。定番という、ともすれば特徴に乏しいと思われがちなこの書き出しですが、定番は定番なりにいくつかのことを教えてくれるような気がします。ともあれ、見ていきましょう。

 最初に「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」とあるところからですが、言うまでもなく、〈使徒〉とはイエスさまから特別に選ばれた12人の弟子たちにつけられ、イエスさまの権威を付与された伝道者という意味のタイトルですが、教会誕生後10年以上経ってから、パリサイ派の学者としてキリキヤのタルソからエルサレムに留学し、始めて聖書に登場したパウロは、当然その12人の使徒には入っていませんでした。そればかりか、イエスさまとは直接会ったこともなく、キリスト教会最初の殉教者ステパノの処刑に立ち会い、その後、強力なクリスチャン迫害者としてその名を知られるようになります。ところが、シリヤのダマスコまでクリスチャンたちを追いかけて行った時、イエスさまが彼に現われ、十字架とよみがえりの福音を伝える者として彼を召し出されたのです。これが彼の使徒としての原点であり、この言い方の定番となった理由です。このことが、強烈に主張されているところがあります。「使徒となったパウロ。私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」(ガラテヤ1:1) 〈神のみこころによる〉とは、そのことを意味しているのでしょう。コロサイ書は、ガラテヤ書ほどその主張が強烈ではありません。しかし、どうしても使徒としての権威を語らねばならない事情があり、この書簡になったということです。


U 正しい信仰の耳目を

 〈使徒パウロ〉と並んで、発信人に〈兄弟テモテ〉とあります。この書簡は、ピリピ書、エペソ書、ピレモン書とともに獄中書簡と呼ばれますが、恐らく、パウロの第一次ローマ入獄時に書き送られたものと思われます。その様子が使徒28章に記録されています。監視付きではありますが、自分で一軒の家を借り、友人たちが出入りし、伝道の働きを進めるなど、比較的自由な囚人だったようです。そこに出入りしていた一人に、若い伝道者テモテがいました。パウロはコロサイを訪れたことはなかったようですが、彼の教えを受けたエパフラスがこの教会を建て、それが縁で、パウロ、そしてテモテも「大先生」と覚えられるようになったようです。それにしても、兄弟テモテとあります。私たちはイエスさまを信じる人たちを互いに「兄弟姉妹」と呼び合いますが、パウロはここで、コロサイの教会の人たちに、イエス・キリストの使徒であっても、個人としてのパウロからではなく、ローマにいる同じ信仰の兄弟姉妹からの祈りのしるしとしてこの手紙を送ったと意識していたのでしょう。それが兄弟テモテという書き出しになっています。イエスさまの福音を委ねられ、その福音を信じ、同じ群れの交わりに招かれている者から送られた励ましと慰めの書簡。コロサイ書の第一の特徴を、まず、そのような「教会的」なものと理解して頂きたいのです。

 その特徴は、受信人たちを「キリストにある忠実な兄弟たちへ」と、「兄弟」を繰り返していることを見ても明らかです。しかも、〈キリストにある忠実な〉ということばを加え、クリスチャンたる者の信仰の在り方を一言で見事に言い表しています。実は、この言い方がコロサイ教会の問題点を浮き上がらせていると思うのですが、この言い方を逆にすると、〈キリストにない不忠実な〉信仰者がこの教会に存在していたということになるのではないでしょうか。いづれ本文に出て来ますが、この教会には、初期教会が戦った異端の教えがはびこり始めていました。現代、私たちの周りにも多く現われ始めている異端……、それは必ずしも異端と認められているわけではなく、むしろ、熱心な信仰者たちと思われている部分も少なくないのですが。しかし、彼らが本当にキリストの者、キリストに忠実な者か、自分自身をも含め、見分けていかなくてはならないでしょう。〈キリストにある忠実な〉と呼ばれることで、私たちには、それを見分ける正しい信仰の耳目を育てる責任が負わされていると覚えたいのです。


V 愛の大きな者に

 もう一つの定番「聖徒たちへ」ということで、覚えて頂きたいパウロの中心メッセージがあります。これは、字義通り「聖なる者たち」ということですが、「キリストにある」ということばは「忠実な者」にも「聖なる者」にもかかっており、「キリストにある聖なる者たちへ」ということです。聖ということばは「区別された」という意味であると何回も言ってきました。新改訳聖書はこのことばの訳語に、「聖別」という奇妙な日本語まで造ってしまったほどです。何から区別されたのか、「キリストにいない」者たちから区別されたのだと、パウロは強く意識していたと思われます。「キリストにある」「キリストにいない」を少々考え過ぎかとも思いますが、英語の前置詞「in・〜の中で」と同じものが用いられているので、「キリストの中で」「キリストの外で」と考えてみると分かりやすいのではないかと思います。イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかられたと、数え切れないほど聞いて来ました。その十字架に罪赦された者が「キリストの中で、キリストの民とされた者」、未だその福音を受け入れない者たちを「キリストの外にある者たち」と区別されているのです。断っておきたいのですが、差別を言っているのではありません。クリスチャン以外の価値観を何から何まで否定してしまう人たちもいないわけではありませんが、区別はしても、その在り方を全部悪いものと決めつけ、「自分は良い人間だ」と嘯くほど狂信的であってはならないと思うのです。

 ただ、こんな自分が、こともあろうにイエスさまのものにされたと、新鮮な驚きとともに、「あなたはわたしの聖徒である」と言われていることを受け止めて欲しいと思うのです。それは、イエスさまの十字架とよみがえりを「普通ではないこと」と聞くことではないでしょうか。伝道者として20年以上も世界を巡って来たパウロにおいてさえ、この書簡が、キリストに関して長年培ってきた知識を教えるものではなく、彼の新鮮な信仰の証言であると聞こえて来るのです。もちろん、そこに「私は本当にイエスさまの民、聖徒なのか」という問いかけもなくてはならないと思うのですが。

 このところはパウロの祝福で結ばれています。「どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように」 コロサイという町は、紀元5〜4世紀頃、小アジヤの、エペソから東方に向かう主要な街道沿いにあって栄えたところのようです。〈恵み〉と〈平安〉はギリシャ的挨拶とヘブル的挨拶が組み合わされたものであり、パウロはこの福音の世界的な広がりを念頭に置いていたのでしょう。その広がりは愛の神さまから溢れてくるものであり、その神さまに結びついていることを大切にして欲しいという彼の願いではなかったかと思います。詩篇4:1に「あなたは私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました」とあります。「ゆとり」とは、広いところを見る目という意味であり、イエスさまを信じて広い大きな世界へと羽ばたいていくことです。忠実にも愛にも、そのように大きく成長していきたいと願います。