神さまが司令官

第六章 神さまが司令官


2、ボランティアと共に

 駆付けて下さったボランティアの方たちのことは、第2章で詳しく述べた。ここでは、それらボランティアの方々と過ごした日々の素晴らしさに思いを馳せたい。

 ずっと一緒に過ごしてきた2ヶ月半、働くこともむちゃくちゃに働いたが、一緒に食事もし、お風呂にも行き、宿舎での彼らにも接してきた。一麦教会を始め、教会と牧師館が一緒になっているところでは、なおさら、彼らとの共同生活という思いが強かったであろう。なにしろ、最高1日90人からのボランティアが来て下さったのである。筆者などはほとんど壁の方を向いて仕事をしていたので、お顔さえも知らないままの方たちがいる。申し訳なく思う。どなたかが「聖会のよう」と言っておられたが、本当に大きな聖会であった。一つの家族のような、天国とはこのような交わりなのかと思わされるほどの日々であった。

点描
 K姉が大きな荷物を背負い、両手にまで荷物をぶら下げて入ってきた。「只今」「お帰りなさい!」 しばらくして思い出した。確か二週間くらい前に帰っていった筈なのに! 五〜六分もすると、もう新しいメンバー(彼女にとっては)と一緒に働いている。ちょっと東京まで行ってきました、という感じなのである。こんな兄弟もいた。O兄、月曜日になるとやって来る。そして、3日ほど働いて帰ってゆく。「実は失業中でして……」 そのO兄が自転車でやってきた。大阪から、とりあえず途中下車という。「どうしたの」「姫路まで行きます。就職が決まって、寮から通うのに自転車が便利だから」「おめでとう!」 ……で3日後、「只今、無事就職してきました。一度荷物を取りにもどるとこです」「今度は自転車ではないの?」「それが、面接を受けて、寮に泊まって明くる朝見たら、盗まれていました」「……」大阪に戻る前にもう1度働きたいと、その日1日物資と格闘していった。自転車で……、まだ若いからそれも良いだろう。でも、60幾つというとそう若くはない。そんなS兄が京都から自転車でやって来られた。表装職人だそうで、包丁も砥いで下さるという。あいにく一麦教会に砥石がなく、吉川先生が砥石をご自分のものを持ってこられた。しかし、一麦教会の古い包丁がそんなにあるわけではない。砥ぎあげてしまうと包丁のほうはあきらめて、どこか襖の修理はとおっしゃる。私たちの教会の、何箇所もの内壁亀裂も修理して下さったが、本当に一生懸命働いて下さった。「うちの教会に、自転車で九州まで行こうかという方がおりましてね。60幾つなんですけど、今度、その訓練を兼ねてここまで自転車で来るんですよ」と某先生が言っておられたが、「あ、この人だ」。 すっかり人気者になって、まもなく京都に帰られる。いよいよ自転車で出発という時、みな総出で見送り、口々に「気をつけてね」。誰かが、「忘れ物!」と叫ぶ。「大丈夫。持ちました」 パンク修理の道具をどなたかプレゼントしたらしい。M先生「大丈夫かいな」 途中、芦屋の辺りで自転車を放り出したくなったらしいが、無事お着きになったそうである。実はこの兄弟、もう一度おいでになられた。「今度は?」「電車で来ました」−砥石ご持参で来られた。

 YWAM。いろいろな国から集まって一緒に来られた兄弟たちの中に、N兄がおられた。大きな体のコンピューター技師。独身。だいたい日本人は恥ずかしがり屋で、特に英語人となると、もうだめ! 側に寄りつこうともしない。それでも彼らは持ち前の明るさで一生懸命仲間に加わろうとしていたが、このN兄は体に似合わず内気。そしてこの日のボランティアの食事は佃煮とお味噌汁、お箸を使うのも初めてらしい。見かねて誰かがフォークを持ってきたが、すっかり無口になっている。「彼、ホームシックにかかってね」と同僚のN兄。心配して懸命に慰め、どこへいくにも声をかけて連れていっている。そんな彼が興味を持ったのがワープロ。打ち込んでいる家内の肩ごしに眺め始めた。とうとうそこに座り込んで家内と仲良くなったみたい。しばらくおしゃべりしていたが、その内に忙しくなった家内は近くの女性にバトンタッチ。「お願い、英語で話してあげてね」「せっかく日本にボランティアに来てくれたN兄を悲しませてはどこへやら、N兄の周りにはいつも誰かがいて、なかなか上手な英語で質問攻め。嬉しそうにN兄の顔がほころび、ホームシックの心配が解消した。もし神さまが導いてくださるなら宣教師になって日本に来たいと話してくれた。日本を好きになってくださったようで嬉しいことである。

 全く英語がだめという人たちと日本語を理解しない彼らが救援活動で一緒に出掛けた。1日の働きを終えて帰って来た時、ことばは問題ではなくなっていた。


 ボランティアの宿舎が拡大していった。初め一麦教会だけだったのが、多聞福音教会、垂水福音教会、垂水神の教会、西神聖書教会と5つにふくれ上がっている。それぞれの宿舎でドラマがあったことと思うが、筆者のところでのいくつかをご紹介しよう。

 ある時、珍しく日中、教会に戻ってみると、若い男性ボランティアがのんびりしている。「今日はお休みをもらいました」「そう。よかったね」本当に嬉しいことである。それだけ落着いてきたということなのだから。まだそれほど多くなかった時、夜、ケーキとジュースを持って宿舎に上がっていった。四〜五人の男性が顔を輝かせた。そのケーキとジュースでお誕生祝いをしようと言う。その日お泊りになっていた宮崎・油津教会の日高先生のお誕生日であった。ボランティアの方たちと聖日礼拝を一緒に守ったが、講壇から語られる神さまのことばに食い入るように聞いていた、その姿勢が胸のうちに深く残っている。ある日の礼拝後、昼食を囲みながら話がはずんだ。こんな震災がなければ神戸の街はすてきなんだよ。夢風船というのがあってね。小さなロープウエイなんだけど、新神戸からそれに乗ってゆくとハーブ園に着くの。あなた連れていってもらいなさいよ。「私は行ったことがあります」とA姉。次の日、「おみやげです」ハーブ園のすてきなテーブル・センターを頂いた。

 1日最高90人も来てくださったボランティア、記録が不備だし、煩雑にすぎるところがあって未確定のものであるが、ご報告したい。送り出してくださった教会にはお礼状を差し上げたつもりであるが、もし届いていなければ、それは私たちの不手際で、お詫びします。漏れている方、ダブっている方もあるので概算とお考え頂けると幸いである。

 本部のボランティア総数、716名(4月8日まで)、内、教職107名、男子347名、女子262名である。これらの先生たち、兄弟姉妹たちを送り出してくださった教会は北海道から沖縄まで118教会に及ぶ。東京とその周辺の教会からが一番多いようであった。韓国やアメリカなど外国からの方たちは約80名を数える。長い方で1ヶ月半以上、そんな方が何人もおられる。ほとんどは1週間〜2週間。日帰りという方もたくさんおられたが、そのほとんどは地元の教会の方たちである。中にははるばるやってきて2時間くらいという方もいた。お昼を食べてお茶を飲んで、そのまま帰らなければならないはめになってしまって。しかし、ボランティアは手足を動かした方だけではないと思うので、出来るだけそのような方たちをも加えたつもりである。但し、問安に来てくださった先生がたは大部分はぶかせて頂いた。又、ボランティアを送り出してくださった教会の先生がたには物心両面でご援助を頂いたが、集計からはずさせて頂いた。本当は、そういった先生たちも重要なボランティアに違いがないと思う。この集計は何を基準にと、お叱りがあるかもしれない。来てくださった方々を集計したわけであるが、ルーテル神学校内、松本通教会内の両支部総計二七六名(3月17日集計)を合わせると、現在まで1000名を超えたと思われる。延べ人数は多分5000人をこえていよう。こんな小さな者たちの働きに、どうしてこんなにもたくさんの方たちが加わって来られたのか、今もって判らない。悲しみも喜びも一緒に味わったボランティアの方たち、この方たちをお送りくださったのは、間違いなく神さまご自身なのであろう。


 子安本部長が気持ち良さそうに、うつらうつらしておられる。本部長席に座ったまま、若い女性ボランティアが肩をもんでいる。優しく、肩の辺りをなでさするようにして。そのうち、安楽椅子の方にいってしまった。まだなでさすっている。子安先生ご夫妻は彼女たちの「神戸のお父さん、お母さん」なのである。彼女たちの作った食事を、どんなものでも満足そうに「おいしい、おいしい」と言って食べておられた。

 その本部長への提言というノートがある。彼女たちが帰るとき(男性諸氏のものも含まれていたが)、本部長宛てに書き記した連絡、提言、お願い、感謝などなど……。最後に、本部長自らまとめて下さった彼女たちのことばをご紹介しよう。

 はじめ来た時は知らない人達ばかりでドキドキしましたが、子供伝道を通して毎日友達ができ、神さまがこのボランティア活動に遣わして下さったことに心から感謝しています。 ボランティア活動を今まで1度もしたことがなく、最初は不安でしたが、一ヶ月間、毎日色々な仕事に追われて過ごしました。これからは自分の目と体で感じたことを東京の人々に伝えるのが私の仕事だと思います。 東京のマスコミのとらえ方と言うか、報道は、神戸の避難所で炊き出し奉仕をしてきた私には、どういう視点で記事を書いているか、考えさせられます。ここでのクリスチャンたちとのボランテイア活動を通して、キリスト、神さまを身近に感じることができ、大変感謝でした。救援活動を通して、たくさんの人が元の生活を取り戻せるようにお祈りしています。 初めてきた神戸で、暖かく元気な先生に会うことができ、とても励まされました。ボランティア活動を通して、神さまが共に働き、活きておられることを本当に感じることができました。まるで、聖会にでも参加しているふうでした。 1週間お世話になりました。最高の笑顔をありがとうございました。体に気をつけて、がんばって! 祈っています。 ボランティア活動を通して先生に再会でき、先生の暖かい人柄に触れ、御家族にもお会い出来感謝でした。路傍伝道では精一杯さんびを、炊き出しではひたすら野菜を切り極めることができたと思います。 今回の震災で、知人を1人失い、祖母の家も倒壊し、人事とは思えず、ボランティアに参加させて頂きました。私が思っている以上に被災者の傷は大きく、それを治すのには時間がかかります。今一番必要とされるのは心のケアだと思いました。私たちのの奉仕は本当に小さいものでしたが、きっと神戸は立直ると信じさせて頂きました。私は求道中ですが、こちらに来て信仰が強められ、国に帰ったら洗礼を受けます。先生ご夫妻の暖かさを毎日感じ、とても幸せな11日間でした。 東京にいた時は「ボランティアに行く」などと言っていましたが、ここに来て、それが大変な思い上りであったことにまずきづかされました。私は役に立たないものですのに主があわれみをもって、ご用のために用いようとして下さったことは大変な恵みでした。この神戸は、私が「何かする場」ではなく、「私を訓練して頂いた地」となりました。 この救援対策本部ですごした日々は、天国の前味を味う日々であり、聖霊に豊かにみたされた聖会、それも、特別聖会そのもののような日々でした。先生方の心の豊かさ、広さ、その受容力に圧倒される毎日でした。 ネコの手でも借りたい時期は過ぎて、今必要なのはスペシャリストなんだと感じ、自分が高慢に「奉仕してあげよう」と思っていた心が砕かれ、それからは徹底的に「やらせて頂こう、何でも」という思いで奉仕してきました。被災者の笑顔に励まされ、支えられたボランティアです。 大変お世話になりました。自分の好意が人を傷つけたり、迷惑をかけたりすることのあること、したいと思っても無力のため出来ないこと、でも皆が純粋に心から神戸の方々のことを思い、なにかさせて頂きたいという共通した思いでボランティア活動に参加できたと信じています。そして、これこそが今、一番神戸が必要としているものだと思います。被災者の方々に何とことばをかけてよいのやら戸惑いばかりでしたが、共感することの難しさと忍耐を学び、同時に、自分の無力さを感じました。それにしても、しみじみ思ったことは、霊肉両面の「帰るところ」のある安心と大切さ。この面でクリスチャンのボランティアが、たとえ直接みことばを語らなくても、行動を通してキリストの香りを放つことができればと思いました。神様の下にある小さな私。そんな1日、1日を神戸で過ごさせて頂きました。それに何といっても、1日の活動を終えて、帰る所、迎えてくれる所があることの感謝。先生の「おかえり」を聞くことがどんなにうれしく楽しみであったことか! 神戸のお父さん、お母さん大好きです。祈っています。 昨年のクリスマスに受洗した私は、こんなに多くの兄姉に囲まれて過ごすのは初めて。こうした対策本部が実現したのも垂水地区と先生方の間にはふだんからの連帯があったからと聞いて、私は、元旦に榊原先生が開かれた「第四の者の姿は神々の子のようだ」というダニエル書のみことばを思い出しました。 与えるより受けることがはるかに多かった、神戸でのボランティア生活。「他人は救っても自分は救えない」救わなかったイエス様の十字架を示されて、キリスト1番、自分は2番と言いながら、2番目の自分の出番をじっと待っている自分の心をさぐられました。

 ここに来て下さった方たちは、子安先生ご夫妻が大好きになって帰って行かれた。先生の暖かさ、大きさが神さまのそれを感じさせるからであろう。もう1人、ボランティアの方たちが大好きになったのは松下先生である。とことん優しい。救援活動の終わり頃、みんなの疲れが溜まってきたとき、今日はお寿司だ、と子安先生、楽しい手巻き寿司の夕食会になったことがある。この時、松下先生ご夫妻がご自宅からたこ焼きの道具1式と材料を持ってきてサービス。この辺りには明石焼き」という名物があるが、お2人はその道のプロのようであった。こんな救援対策本部が「帰る家」を暖かく感じさせ、2ヶ月半もの間、ガレキ作業の辛さからお1人お1人を支えてきたのかと思う。

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