神さまが司令官

第五章 もう一つの報告書


1、ボランティア・レポート

「長かった1日」                              坊 向 輝 国

 1月17日の未明、猛烈な激震のため私は箪笥の下敷きになっておりました。かって長野市で群発地震を経験しておりましたが、そんなものとは比べものにならないほどの大地震でした。地震が治まったところで、早速両親の部屋へ駆けつけ無事を確認し、教会堂に下りてきますと、家中がひっくり返ったような状態で、地震の規模とその惨状の大きさを感じました。

 やがて夜が明け、周囲が明るくなるにつれ、教会の前の古い木造家屋がほとんど倒壊しているのを見ました。これはえらいことになったと、直ぐ教会の近所に住む1人暮らしのお婆さんのことが気になり、駆けつけましたところが、その家は完全に倒壊していました。そして、そのお婆さんは瓦礫の中から近所の人に助け出されているところでした。そこで近くにいた青年におぶって貰って教会に収容しました。その後、教会の前のアパートが完全に倒壊し、そこに住んでいたはずの人の姿が見えませんので、建物に近づいて「誰かいませんか」と声を掛けると、「助けてくれ……」と声がしましたので、その辺にいた人たちと一緒に救出活動を始めました。皆んないつ倒れるかわからないような瓦礫の中に入り、2階の畳をはぎ、床を蹴破り、天井をはいで押しつぶされた階下に潜り、声を頼りにつぎつぎと4人を助け出しました。

 そして、その人たちを教会に収容しましたところが、教会堂の中はすでに近所の家を失った人たちが一杯はいっておられ、緊急避難所となっておりました。家内も教会のお客さん用の布団をどんどんと運び、被災者に与えておりました。あとでわかったことですが、震災直後に2人の娘たちが街に出て行って、家を失い呆然とたたずんでいる人たちや、パジャマ姿で震えている人たちに声をかけ、つぎつぎに教会に連れて来たそうです。

 また、瓦礫の中から堀り出された遺体も4体も運び込まれる有り様で、事態の深刻さを痛感いたしました。やがて夕方になり、電気も水道もなく、教会堂自体も少し傾き、危険な状態でしたので、ようやくできた近所の小学校の避難所に皆さんをお移ししました。

 これが震災当日のざっとした活動でありましたが、教会が行った緊急の救援活動が近所の方々から大変感謝されることになりました。私が道を歩いていると、「私はあの人に助け出された」と、私の方を指して話しているのを聞いたり、「教会のお蔭で助かりました」と改めてお礼を言いに来る人があったり、中には、教会の前で立ち止まって教会に向かって手を合わせて拝んでいく人があったり、「母がお世話になりました。これを食べて下さい」と弁当を届けて下さる青年があったり、とにかく近所の方々の教会の者に対する態度がたいへん優しくなったのを感じるようになりました。                                                                       (山手教会牧師)


「大震災と救援活動」                          内貴 八郎右衛門

 このたびの大震災は、阪神、淡路地方に甚大な被害をもたらした。都市機能をマヒさせ、死者、不明者を合わせ、5千5百人を超える未曽有の大参事である。

 この救援活動にいち早く立ち上がったのは、神戸宣教協力会救援対策本部(代表子安敏夫師)グループであったと思う。

 そのボランティアの活動は、目ざましいもので、神戸一麦教会を中心に、延べ数千人もの兄姉が出入りして、毎日毎日、各々の活動に従事された。私はその様子をつぶさに見て感じたことは、「すごいなあ―」ということであった。被災者へ心温まる助け合いを救援の場で見せられて、これ程の善意、温かさが今までどこに隠れていたのだろうかと、驚くばかりである。

 ある方は、救援物資搬入の窓口となり、或るグループは、炊き出しの応援に、またガレキの撤去、危険な倒壊壁などの除去作業に、或るグループは、水道管、屋根の修理、壁の亀裂等の応急修理、移転の手伝い、施設の水汲み、医療活動に、幾日も泊りがけでの救援活動、また本部にあっては、連日事務処理の奉仕を担当して下さった先生方々、等々、みんな少しでも災害を受けた方々のお役にたてばとの思いで、水を汲んだしもべの喜びを感じつつ、感謝と喜びをもってこれに当たっておられることを、身をもって感じた。

 聖書には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とある。兄弟方に対して気まぐれではなく、真の関心を寄せることをすすめている。他人の苦しみ、痛みを傍観せず、このみことばを地で行くものでありたい。この大震災と救援活動をとおして、おおくのことを学び得て、さいわいであった。           (明石上の丸教会牧師)


「地震と救援活動」                              松 下 勝 彦

 「必要な時に必要なものを必要なだけ送り届ける」をモットーに始められた救援活動に参加させていただき、貴重な体験を得ることが出来ました。最初、物資も人もどのようにして用いられていくのか皆目、見当もつきませんでした。しかしこの働きは主に心動かされ、主によって導かれる働きであると確信を与えられる中で、不思議と守られなされてきたと思い感謝する者です。ある時、ボランティアの人を運ぶ車と運転手がどうしても必要なことがありました。ちょうどその日の朝、1人のボランティアの方が車を持って来て下さいました。さらに韓国から10人の男性がボランティアに来て下さいました。はじめ、どんな仕事があるのかわかりませんでした。でもうまくしたもので、力ある男性を必要とした仕事があって彼らを送り出すことが出来ました。壊れた家の中から必要なものを取り出すという危険な仕事でしたが、彼らは喜んでして下さいました。約2ヶ月半の間、多くのところで主が必要を備え導いて下さったということを、身にしみて体験させていただきました。教団、教派、教会、国を越えて心一つにされて救援活動がなされたこと、なんと大きな事に参加させていただけたかと思わされています。1人の宣教師がこう言われていました。「この活動に参加するということは『キリストの体』として機能を働かしていることだ」と。一人一人、与えられた賜物を出しあってキリストを頭としての働きがおこなわれていきました。神戸、阪神、淡路の地が神に愛されているということを強く思わされました。多くの方たちの励ましによって神戸、阪神、淡路地区がさらに神の愛を現わしていく町となっていくようにと心から願う者です。                                   (垂水福音教会牧師)


「教会問安の1日」                              津 村 俊

 故郷の町が燃え続けている。多くの家屋が崩壊してる。高速道路が飴のようにひん曲がり、暗闇のなかパトカーのサイレンがなっている。テレビに映し出される映像を見、兵庫・長田・須磨という聞き慣れた地名を耳にしながらいてもたってもいられない。新幹線も、電話も不通。ようやく大阪と岡山の妹達を通して垂水の母と姉がけがもなく守られていることを知ったのは何時間も経ってからである。

 東京からいつ神戸の西部に入れるのだろうかと、様々な交通手段を摸索していたときに、埼玉県栗橋の池間先生が救援物資を届けに行くというニュースが入った。2トントラックに村松先生と3人で乗り込み、東京を出たのは震災後丁度1週間経った1月24日(火)の夜中の1時過ぎであった。中央高速、名神高速と通り、緊急車両のみが通れる片側通行の中国高速を、20メートル間隔で、ゆっくり、時速20キロで活断層の上を通り抜ける。路面のあちこちが波打っている。正に緊張の一時であった。ようやく垂水の救援対策本部に着いたのは夕方の4時頃であった。

 私が最初に車で入った激震地区は、長田と兵庫である。夢野経由で、山の手から少しずつ下っていく。右にも左にも倒壊した家々がある。まだ建っているように見える場合でも、よく見るとどこか傾いている。更に下っていくと、あの焼け野原になった地域が目に入ってきた。…言葉にするのがためらわれる。それでも何とか言葉化しようと試みたが、いまだに適切な言葉を見い出せないでいる。筆舌に尽くしがたいとは、正にこういうことなのだろう。…瓦礫のため狭くなった車道を、多くの車が、忍耐強く、異様なほど静かに、ゆっくりと、譲り合いながら進んでいく。普段の交通渋滞とはどこか違う。誰もクラクションを鳴らさない。あれ程の激震を経験し、余震で不安の中に置かれている人々の思いが、その言葉の伴わない行動によって、表わされているのであろうか。遠くで、近くで、パトカーのサイレンが鳴り続けている。

 最初に問安した教会は、鍵が閉ざされて牧師が不在であった。何処かに避難されているのであろう。次の教会では、牧師館が焼失して会堂に避難しておられるN先生に、実に数10年ぶりでお会いした。水が出ない、大変不自由な生活を強いられて居られた。奥様の心臓病を気遣っておられる先生に、ただ、「関東の諸教会がお祈りしています」とお伝えする以外に慰めや励ましの言葉をもたなかった。次に訪れた教会では、夜は避難所に寝泊りしている宣教師の方が居られた。周囲の殆どの住民が避難所暮らしをしていた。福音宣教のためにとは言え、異国にあって、このような状況に置かれて黙々と働いておられるその姿に何か厳粛な思いがした。帰るとき振り返って見た壁の時計は5時46分を指していた。

 湊川の商店街は、昼間なのに薄暗かった。伝道館の周辺は店舗が倒壊したり、傾いているところが多かった。牧師館が大きな被害を受け、ご家族が不自由な中に居られるのに、T牧師は近くの小さな公園のような行政の手が届かない所に物資を配っておられた。この大参事のなかで、神が教会や牧師を支えて、尊く用いておられるのを身じかに知ることが出来た。その直後、御旅公園でテント生活をしている30人ばかりのグループに靴下や、懐中電灯などをとどけた。テレビには映らないこうした多くの人々が不自由な生活を強いられていることをじかに見て、心が痛んだ。

 夕方に問安した中央区の山の手の教会は、会堂は殆ど無傷であったが、その日会員の方の告別式があったとのことであった。教会の悼みは、目に見える会堂の傷みを遥かに越えたものであった。日もとっぷり沈んだ頃、石屋川の教会に着いた。教会は、塀が壊れた以外は守られていた。しかし、周辺は殆ど人けがなかった。所々に人が住んでいるらしく家から光が漏れていた。一人のお酒の臭いのする中年の男性が通り過ぎた。「牧師先生によろしく」と言って、薄暗やみの中に歩いていくその後ろ姿を見ながら、その人のために祈らざるを得なかった。

 人の住んでいない町は、「廃墟」そのものであった。昼間には、倒壊家屋のことばかり目に入って、そこに人が住んでいないことに気がつかない。しかし、夜は、一目瞭然であった。薄暗い住宅街の四つ辻を車で曲がった途端に、目の前に倒れた家が道を塞いでいた。思わず息をのんだ。こういうことがしばしばあった。帰りの道も渋滞であった。遠くで、近くでサイレンがなっている。点滅する赤ランプが大変印象的であった。3時間かかって本部に帰り着いたのは夜の10時頃であった。本当に長い1日であった。

 たった1日問安して何ができたというのだろうか。問題の大きさにただ圧倒され、飲み込まれてしまいそうになる。見える「現実」と見えない「現実」を、共に直視しなければならないのに、ヴィジュアルなものに引き込まれてしまう人間の弱さがある。会堂は守られていても、教会員が3割以上減少している。教会の復興は、会堂の再建とイコールではないだろう。しかし会堂が壊滅状態の教会は、早く集会場所が必要である。2週間後に、再び神戸を訪問した時、「今度の日曜が最後の礼拝です」そう言って、目をうるませながら、教会の沿革と青年時代の思い出を話してくださった付属幼稚園の園長先生にもお会いした。ピアノとオルガンだけが残された会堂の講壇の中央に大きな聖書がしっかりと置かれていた。みことばの上にこそ教会が建てられるのである、とあらためて思わされた。

 ある水道局の職員が、「自然の力は、本当に恐ろしい」としみじみと語っていたことが忘れられない。確かに、これはこの自然を造られた神を、そしてその憐れみを知らない人の率直な感想であろうと思う。しかし、須磨区のある老牧師は「この地震を通して神様の本当の怖さが分かった。日本の教会は、神を神として心から恐れてこなかったのではないか。この大震災は日本の教会へのチャレンジ。今こそ、いのちがけの信仰が求められている」と述べておられた。地震は確かに人々の心をも揺るがしている。これまで頑なに拒んできたある中年の男性が、今受洗を希望している、とお聞きした。東灘区で自宅が全壊になって教会堂に避難していたある婦人の言葉が私の耳に強く残っている。「本当に大切なものが何であるかを教えられた」その人は、倒壊した家屋から物を取り出すつもりはもうないと言っておられた。物質的豊かさの中にいつの間にか眠りかけていた我々に対する、大きな、しかし憐れみに満ちた神からの警告として、この震災を受けとめたいと思った。被災した諸教会、諸兄姉の上に、引き続き主の慰めと励ましと恵みがありますように、心からお祈りしつつ。                                   (聖書宣教会教師)


「神戸に、2回」                         鈴木 弘子・須田 ます代

 主の恵みににより、私達は2回神戸に行くことができました。第1回目は、救援対策本部が始まったばかりのころでした。1階の駐車場には物資が山積みとなっており、教会の食堂を本部の事務所兼食堂として使用し、とにかく雑然としていました。早朝から、下山先生、松下先生、吉川先生がこられ、救援物資の搬入搬出、仕分け作業、鳴りっぱなしの電話の応対など、人手も少なくめまぐるしい忙しさでした。被災地には、まだ物資が十分にゆきとどいておらず、なんとか助けなくてはという緊迫感がありました。

 しかし、そんな中でも本部内には明るく楽しい交わりがありました。先生方のキリストにある品性が、そうさせていると思いました。子安先生御夫妻は、宿泊や食事について皆の健康のために細かい配慮をされていました。また、試練の中にあっても、キリストを土台とされた平安と希望のうちにおられ、改めて救いのすばらしさを見させていただきました。そして、特に感動したのは、先生方が自らも被災者であり、教会のこともあるのに、それを捨ておいて人々のために立ちあがられ労されていることです。イエスさまの十字架に従ったいき方であると思います。私たちは、本部で奉仕させていただきましたが、かえって多くの恵みと教訓と励ましをいただきました。

 全国から必要な時に必要な物が来て出ていく流れを見るとき、また、本部の体制が徐々に整い拡大されていく様子を見るとき、これは、主の働きであるんだと思わされました。
また、2回目の訪問の時には、物資運搬から伝道へと働きがかえられており、その中で決心者もおこされていました。私たちには計り知れない主の神戸に対する大きなご計画の一部を教えられたように思いました。「それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」 主の御心がなされますように続けて祈らせていただきたいと思います。                             (静岡)


「お祈りしています」                             浅 沼 紀 子

 温かい春の陽射しが、傷ついた人々の心と大地に降り注ぎ、私の傷をいやしてくれてるかのようです。元気に飛び回る鳥達、桜の花、新緑を見ていると、1月17日に起きた地震や今起こっている多くの事件は、一瞬夢ではないかと思います。しかし、今もなお傾いたままの建物や避難所生活を続けている人たちがいることを考えると、我に帰ります。

 17日、寒い朝でした。暗闇の中でラジオを聞くことしかできず、日が上り明るくなるまでの時間が長かったこと……。時が経ち、被害の大きさを知り、非常にショックでした。一歩外に出れば、道路、建物すべてがゆがみ、ガスが漂い、気分が悪くなるほどでした。その時、私の心の中に、「神のなさることは全て時にかなって美しい」という聖句が浮かびました。しかし、それが自分には受け入れられず、どこが美しいの? 神様がどうして!? という気持ちで一杯でした。この不信仰な思いがとどき、私は神戸一麦教会に届けられました。ご自分の教会を本部や宿舎に開放して下さった子安先生方、ご多忙の中で本部に詰めて下さっていた多くの牧師先生方の姿を通して、私の人間的な思いは変えられ、神様と真正面から向き合うことが出来るようになりました。

 神様は、「必要なときに・必要なところへ・必要な人・物・お金を、必要なだけ」送って下さり(先生方の口癖)、毎日が神様の奇跡の連続でした。そして、先生方、ボランティアの方々は、全国各地の教会の方々の祈りによって支えられていることを実感し、とても恵まれました。つい人間的な思いで、翌日のこと、先のことを思い煩ってしまうとき、神様は色々な方法で、全て祈って委ねることを教えて下さいました。本当に祈って委ねていると、不思議なことに、毎日毎日すばらしい賜物を持っている兄弟姉妹が、必要な事が、神様から送られてきました。神様からの恵みと先生方や兄弟姉妹方との交わりを通して、神様がこの地を愛して下さっているからこのようなことをなさったと、やっと判ることができ、心から感謝しています。

 震災から3ヶ月。多くのボテンティアは手を引き、この対策本部もひとまずボランティの受け付けを終えました。しかし、まだ物資的に精神的に困っている人がこの神戸に、この地以外にも多くいることを覚えます。今の私には大学という現実があって、直接的なお手伝いは出来ませんが、感謝をもって捧げる祈りと願いによってお手伝い出来たらと思っています。

 最後に、今も不自由な生活を送っている方々に、神様の豊かな慰めと憐れみがありますように。また、協力して下さっている先生方とその教会員の方々と、そしてボランティアの方々に、豊かな祝福がありますように。各キリスト教会に兄弟姉妹を通して、神様のご栄光があらわされますようにと心からお祈りします。
  「私はよみがえりです。いのちです。
   私を信じる者は、死んでも生きるのです。」 ヨハネ11:25
 イースターを覚えて、感謝しつつ。                        (宝塚)


「収穫の主に」                                  静 仰 治

 私が神戸に入ったのは2月21日で、この頃には、緊急物資の搬入・搬出・各教会からの仕事の依頼も落ち着きを見せはじめ、救援活動本部としての奉仕は、物質的ケアから霊的ケア(路傍伝道・子供伝道・被災者の話相手になる等)へと移ってゆく時期でした。
それに伴い、暇をもてあますボランティアが出たり、霊的ケアの中には余り重要ではないと思えることもあったりして、神様から与えられた方々を無駄にしてはいないだろうかと感じることもありました。

 神戸から帰って聞いた話ですが、その時期でも避難所やテント村等でボランティアが足りず困っていた所もあったりで、まだまだ人出不足だったそうです。……ならば、こちらから人を派遣すればよかったのにと、事務の奉仕をしていた自分を責めることもありました。
しかし、すべてのことを益として下さる神様のことですから、ここにも御計画があるような気がします。たとえ私があの奉仕は重要でなかったと思ったとしても、神様から見ればそうではないのかもしれません。いろいろな形で神様の知恵に満ちた御業を見せて頂き、子供伝道のすばらしい成果を多くの人から聞いている今は、それを確信しています。

 霊的ケアといった種蒔きは、播いている時やその直後には成果がすぐに見えず不安になる時ももありますが、必ず収穫の時は来ます。芽を出させ、育てて下さる主にすべてをおゆだねして祈り続けたいと思います。                          (横浜)


「喜びの味」                                 佐々木 啓 介

 救済活動に参加した人々は、彼らは期待しなかったことだが、喜びを得た。それは活動内容を問わず味わえるものであり、毎日同じ活動であってもその味に飽きることはなかった。そして、その味はひとつであった。事情が許す限り繰り返しやってきた人や続けた人にとっては、味わったおいしさは原動力であり疲れの癒しであった。それを初めて、再び味わった人、これまでになくたくさん味わった人などさまざまだった。ただそれはそれ自体を目的にしては得られない。それを抜きにした、また神様に委ねた活動でない限り、どんなに働いても決して純粋なそれは得られないし感じることはできない。そしてこのおいしさを味わうことは、決して自己満足には終わらない。人間が神の似姿であるからこそ味わうことができるとおもう。だから救済活動におけるこの一面においてもこれを始めた「最初であり、最後である」神様にすべての栄光が帰せるのであり、帰すべきものであるとおもう。すべてを感謝します。またこの活動は変化し枝分かれしながらも続く終わらないものであると、神様の計画が動いていると家に戻った今も感じています。
                                                 (市川)

* この後に松本通支部(代表・森田兄)のボランティア活動報告が続きますが、これも残念ながら資料が手元になく、掲載できませんでした。お赦しください。
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