神さまが司令官

第三章 被災の教会へ


1、問 安
 被災教会への働きかけは問安と状況を問い合せる電話に始まった。
最初の問安は、東京からトラックで駆け付けて下さった先生たちである。津村先生、村松先生、そして笹岡先生も。津村先生と池間先生は共に神戸出身、被災した教会の悲しみをご自分のことのように受け止められ、到着したその日に一休みされる間もなく問安に飛び出して行かれた。いくつの教会を回り、どのようにして来られたのか、私たちもまだ働きが始まったばかりの混乱期であったため、詳しいことをついにお聞き出来なかったが、被災された教会の受けた傷について、どのように手を差し伸べることが出来るのか、困惑と苦悩をにじませてのお帰りであった。それでも、27日に東京に戻られるまで問安を続け、持参された物資を配り、見舞い金を渡して来られたようである。

 問安された教会の一つに兵庫松本通教会(広瀬満泰牧師)がある。教会、牧師館、幼稚園と全壊したところであるが、この教会は池間先生の母教会であり、25日にお訪ねした時は、倒壊した教会と牧師館の荷物をガレキの下から引っ張りだして、かろうじて残った幼稚園舎に一部運び入れるなど、牧師先生たちもすっかり疲れて途方にくれておられた時のようである。広瀬先生は、だいぶ後にお会いした時も、まだ疲労の色が濃く残っておられた。問安された先生方も、その苦悩に言うべきことばがなかったようである。余りにも大きな被害に先生方は、「最初に訪問したのが地元の牧師たちでなく、東京から来た私たちだったから良かったのかも……」と述懐しておられた。はじめ、そのことばの意味がなかなかつかめなかった。助けるものと助けられるものとの余りにも大きなギャップが、心を通い合わせることを妨げるのだろうか。「助けてあげる」、そんな思いがどこかにあったら、この救援活動を続ける資格に欠けるということなのだろう。問安は、まず心を通い合わせることであり……、この働きは主のものであると理解して、へり下って働くことから、救援活動は進んでゆけるのだろう。

 私たちに代わって、東京の先生たちが問安されて来られたことは、私たちの忙しさという理由からであったが、時を与えて下さった神さまのご配慮であったように思われる。被災教会の痛みは激しく、その苦悩は深い。どこに希望があるのかと問い掛けられるような初期の状況であった。

 もう一つの始まりは電話である。とにかく、被災教会の状況を把握し、それに対処しなければならない。雑用の合間を縫って牧師たちが電話をかけ続ける。状況をお聞きするためというよりも、「如何でしたか? 何かお手伝い出来ることは……」 丁寧に、時間をかけてでなければ、やぶから棒のようになってしまう。松下、吉川両先生の優しさは、救援活動を進めてゆくための力となっていった。後に、内貴先生、景山先生、岩井先生が加わって下さったが、この先生方も優しく応対なさる。そこから情報収集のスピードが上がって、被災教会の必要がたくさん判り、物資やガレキ撤去の要請、応急修理も忙しくなっていった。

 日本基督教会の湊西教会(田中豁牧師)を訪れた時のことである。すでに数日前に、吉川先生が水道管の応急修理に来ておられる。この日は水路の整備と、崩れかかった教育館2階にある児童館の図書を運び出す作業であった。関西聖書神学校の学生が奉仕する手筈になっていたが、大切に集められた児童図書を筆者教会の児童館に頂くことになって、筆者も出掛けることになった。途中、焼け野原になった長田地区などで渋滞に巻き込まれ、なかなか行き着かない。裏道を教えてもらうために、近くの大韓基督教・神戸基督教会(辛鐘国牧師)に立ち寄ったところ、長老の増田兄がウーロン茶など幾箱も持ち出してきて、田中先生のお見舞いに一緒に来て下さった。自らも被災していながら、こうした問安は教会から教会に広がっていった。互いに問安し合い、安否を確かめ、出来るところで手を差し伸べていたのである。すでに幾つもの教会が被災者に場所を提供し、炊き出しをしたり、物資の配給に走り回っていた。私たちの救援対策本部はそんな教会へのお手伝いだったのである。

 救世軍神戸小隊(徳永幸次郎牧師)と近くの湊川伝道館(高松隆二牧師)とは協力し合って救援活動を開始、県外、海外からもボランティアを受け入れて、炊き出しや物資の配布、被災した方々へのお世話等を続けておられた。両先生とも牧師館の被害が大きく、高松先生は車の中で、徳永先生は会堂内で寝泊りをされている。そんな状況下で徳永先生は体を壊し、一時九州に帰っておられたと聞いた。高松先生も本部に来られた時には、別人かと思われるほどお顔の色がすぐれなかった。ボランティアの報告書から。「午前と午後にそれぞれ1箇所ずつ、避難テントの集まっているあたりに出かけ、救世軍の方々の手伝いとして、コーヒーサービス、物資の配給を行なう。また、その近辺で賛美歌を歌う。あっという間に人が集まり、物資はあらかたなくなる。配ったものは缶飲料、子供用の服とクツ、その他衣類少々、テッシュペーパー……。男性大人用の衣類やクツが不足していて配布できなかった」「多くの失業者、あるいは家屋を失った人が教会(湊川伝道館)の前を通り、あらゆる衣服の必要性がある。炊き出しを始めるので、食料品、食器の必要もある」 本部詰めの牧師たちが外に出て行くことが出来ない分、ボランティアの方たちが補って下さる。ある土曜日の午後、予定の仕事が早く終わったからと帰ってきた数人の男性が、「何かすることがありますか」 問われても要請されている所がない。被害情報から3つほど教会をピックアップし、お訪ねして必要をお聞きするように、物資を積み込み、教会所在記入の地図を持たせて送り出した。当たり前のことであるが、こちらからお訪ねしてお手伝いする、そんな働きもようやく始まっていったのである。湊川教会(松原望牧師)にもお訪ねしたと思う。いろいろと検討された結果、解体撤去が決まった教会で、少しばかりのお手伝いが出来たと記憶する。東須磨教会(増永俊雄牧師)の屋根瓦撤去・修理、鷹取教会(中富真牧師)での物資配布のお手伝い、メノナイト神戸教会(野村竹二牧師)の応急修理のお手伝いなどは、そういったボランティアの方たちが出掛けていって働きが広がったケースである。勿論、十分であったとは言えない。途中で尻切れトンボのようになってしまったケースもある。けれども、ボランティアの方たちは自発的な活動を始めて下さり、被災教会自身も精一杯の活動を続けて、救援対策本部と被災教会の歯車がかみ合うようになってきた。


 そんな懸命の働きにもかかわらず、被災から1ヵ月程であろうか、状況に殆ど変化が見られなかったように思う。最大の原因は、教会を含めた倒壊家屋のガレキ撤去が遅々として進まず、ライフラインの回復も遅れていたためと思われる。被災のショックという意識回復にも時間がかかったのであろう。その間に、ボランティアで出来る応急修理、ガレキ撤去等のわずかなケースもあったが、ボランティアの主な活動は、炊き出し、コーヒーサービスなどであり、被災者の生活確保に走り回っていたわけである。その活動は、問安と丁寧な聞き取りが一体となって行なわれねばならない。私たち独自でその体制を目指すことは出来なかったが、出来ればテントなどを張った被災者応対のセンターを各所に幾つも設営し、物資配布、コーヒーサービスなどの働きを広げてゆく必要があったのではと思う。お風呂があればなお良い。新神戸駅前にそんな形の活動が始まったが、協力し合うところまではいかなかった。……けれども、そういう方たちの働きが、被災教会自身の手で、いくつも行なわれていたのは嬉しいことであった。

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