神さまが司令官

第二章 全国の教会から


2、ボランティアの方たち

 救援活動のもう一つの中心、それはボランティアである。この項ではボランティアの方たちの動きに焦点を合わせながらいろいろと報告してゆきたいと思う。

 まず本部長の子安先生をはじめ近隣教会の方たちおよそ10名ほどが、入れ替わりはあったが常駐していたことを挙げておかなければならない。それに県外からのボランティアの方々が加わって来られたのであるが、それは時期によって初期、中期、後期の3つに分けて考えられる特徴があったようである。

 第1期  1月24日〜2月5日
 第2期  2月6日〜3月24日
 第3期  3月25日以降

 そして、もう一つの特徴がある。それは、1ヵ月以上という長期滞在者も結構あったが、その殆どは1週間単位で入れ替わっていったことである。月曜日に着いて金曜日まで働き、土曜日には帰ってゆくというパターンである。これは、ボランティアの方たちが教会から送り出されて来たことを意味していよう。つまり、日曜日の礼拝を自分の教会で守ろうとする姿勢がはっきりと浮き彫りにされており、忠実に礼拝を守っている方たちが牧師から勧められてボランティアとして来られたということであろう。これは、教会に対する援助という旗印をはっきりさせてゆく時、最も力を注いでくれるのは教会生活を忠実に守るクリスチャンたちであるということである。それぞれの教会の牧師たちが、これを主への奉仕と理解して下さるなら、教会への情報提供で救援活動は十分に機能を発揮する。ボランティアのデータを見ていて、思いがけなくも、日本の教会の正常な、そして、熱い主への献身の姿勢を読み取れる思いがした。


第1期(混乱期)

 第1期は混乱期である。大きめの食卓が事務局に早変わり、ともかくも電話が足りないということでNTTに臨時の電話を引いてもらう。1台しか都合されなかったが、一麦教会の電話がファックスも含めて2台、計3台が鳴りだし、その前に牧師たちがへばりついている。ボランティア名簿も必要、とりあえずノートを用意。ところが、これがほとんど名前だけというもので、今、その資料を見ながらその混乱ぶりにため息をついている。第2期になってボランティア申込書のカードが出来、その受け入れも軌道に乗ってきたが、第1期はほとんど記憶だけが頼りという時期であった。森田グループのところで散乱していたメモと取っ組んだ経験から、A5のメモ用紙を作成、これは年月日時分、記入者名を入れただけのものであるが、今これを見ていると、随分と記憶がよみがえってくる貴重なデータとなっている。これは、特に混乱期には大切な役割を果たしてくれたと思う。処理済み、未処理の箱を用意し、その一つ一つを確認して翌日に持ち越さないようにした。ボランティア申込書等いくつかの書式を、参考のために巻末に紹介したい。

 ボランティアを受け入れるとき、食事と寝る場所の確保が必要である。当初、ボランティアが30名までは一麦教会だけで十分であった。初期の頃、大抵の方は寝袋を持ってきて下さった。野宿同然と覚悟して来てくださった方たちである。食事は、混乱期にはその用意も大変であったが、次第に落ち着いてきて、他所のボランティアグループとはずいぶん違ってきたらしい。他所のボランティアグループでは、疲れすぎて精神的な不安定に陥った人もあったと聞いた。

 前述したように、ボランティア第1号は神奈川・虹ヶ浜チャペルの笹岡先生、穏やかな紳士であるが、1番到着という決断と実行力が買われて財務部長を仰せつかった。それもその筈、先生は土佐っぽであった。そして、東京から到着したトラック第1便の聖書宣教会の先生方、一休みされるとすぐに教会問安に飛び出して行かれた。早速、持参された物資が役に立つ。加古川からルーテル神学校に行く森田兄も物資を積んで到着。そのうちに近隣の牧師たちも駆け付けて下さる。ボランティアもいつの間にか20名を超えて、救援対策本部らしくなっていた。

 初期のボランティア活動は、「必要な物、人、金を、必要なとき、必要なだけ、必要な所に」をモットーに、物資との格闘が主な仕事であった。駆け付けて下さった方々は、大阪、京都、名古屋、静岡、東京都……、なぜか東からが多い。神戸市内はまだ電車が動いておらず、バスはもの凄い渋滞に巻き込まれている。この本部に着くことすらが大変、大阪からでさえ半日以上もかかる有様で、何人かは途中のルーテル神学校にある森田グループに合流してもらった。それでも、この時期、平均ボランティアは1日25〜26名であったろうか。

 この混乱期に、少しづつ落ち着きと秩序をもたらして下さった方たちがいる。イエス福音教団・静岡教会から来られた須田ます代姉と鈴木弘子姉のお二人である。お二人は、まだ、誰が何をするか指示することも出来ないでいる雑然とした中で、台所に入ろうと決められたようである。しばらくすると、色々と工夫された料理が、何時、誰が何人お腹を空かせて帰ってきても大丈夫なようになっていた。ボランティアの受け付け、女性たちの仕事、宿泊の管理、食事の人数も把握できるように、細かな心遣いを見せて、初期の混乱期から第二期の活動期へと移行してゆく道を開いて下さったのである。これも、神さまの司令官としてのご配慮であった。


第2期(活動期)

第2期の始まりを2月6日からとしたが、そんなに明確な区別があるわけではない。ただ、この日、先に第1陣として来られた聖書宣教会が授業を休み、全学年で救援活動に参加と決定し、教師、職員、学生の総勢40名でやって来られた。一挙に人数が60人、70人とふくれ上がり、遂に90人体制にまでなるが、働きも広がって、この救援対策本部も活動期に入ったということである。この時期は3月4日までと長く、3つの段階に分けられよう。

 第1はこの活動期の前半、大体2週間位と思われるが、主に社会人がボランティアの中心だった時期である。この方たちの中には、それぞれの分野で経験を重ね、指導的な地位にある方も多く、海外でのボランティア経験者も加わっていて、ボランティアは命令を忠実に行なうものであるが、同時に自発的な行為であると理解しておられ、いろいろなことを考えながら実によく働いて下さった。ボランティアの何たるかをこの方たちから学んだように思う。

 聖書宣教会の40名(うち5名は夙川聖書教会に行き、西宮方面で活動)が活動期の幕開けであったが、その活動には目を見張るものがあった。以下、彼らの働きを紹介する。

 まず、彼らは完全に自活できるように、食料・寝具等、すべて車に積み込んで来られた。組織も働きの分野も東京を出る前に打ち合せておられたのか、教会問安グループ、食事担当グループ、本部での情報バックアップグループ、物資担当グループ、力仕事グループ等に別れ、宿舎となった一麦教会の礼拝室(他教会にも分宿)にその分担表を貼り出して活動を開始した。神学生といっても殆どは実社会経験者、リーダーの富田雄二兄のもとで実に統率のとれた見事なチームワークを見せてくれた。

 情報の仕事をバックアップして下さった方たちは、数台のパソコンやワープロを持参して、古い機種で仕事をする不便さを何とか解消し、情報活用の能力を高め、システム化し、こういった災害時にも財産として残るものをと志し高く頑張って下さった。そのリーダー・国分広士兄は、ご自分のパソコン一式を私たちの所に残してくださった程である。色々とセッティングして……。残念ながら、私たちがパソコンに弱く、随分いろいろと教えて頂いたのに、使いこなすことが出来ないまま終わりを迎えてしまった。誠に残念で申し訳ないことである。しかし、そのパソコンで子安和宣兄(子安先生ご長男)が会計報告を打ち、前述の救援活動カレンダーもこのパソコンから生まれたのである。一週間経って神学生の皆さんは、「お役に立てなくて……」と謙遜に(とんでもない)、宿舎の窓拭きまでして帰ってゆかれた。

 社会人ボランティアの方たちの精力的な活動とその謙遜さには見習うべきことが多い。物資置場の整理は刈田義仁兄が加わって見違えるほど使いやすくなったし、神戸っ子かと思われるほど走り回って神戸の町に詳しくなって下さった方もおられる。屋根に登り、ガレキを片付け、水道管修理のため穴を掘り、水汲み、炊き出しに顔を輝かせて働いて下さったその姿には本当に頭が下がった。


 活動期の第2の時期は、社会人ボランティアと春休みになって加わり始めた大学生が混在し、人数が膨れあがった時でもある。本当は、全期間を通して社会人ボランティアが居て下さると心強かったのであるが、条件を整えて来ることの難しさからか、社会人ボランティアはほぼ最初の2週間〜3週間に集中していた。勿論、全期間を通して、そんな方が全く居なくなったわけではないが、日本のクリスチャン人口が少ないと言われる現象がこんなところにも現われているようで、少し淋しい思いがする。その社会人クリスチャンの多くが東京から来られているだけに、東京でこれほどの災害が起ったときに、どれ程の社会人クリスチャンが駆け付けられるか不安に思うのである。

 その不安を埋めてくれたのが、休みになってすぐに駆け付けてくれた大学生たちであった。「すぐに」という点で、前述の社会人たちと同列の意識を持った頼もしい助っ人である。この時期は、2月13日からおよそ2週間であるが、その前の週から加わっておられた「頼もしい助っ人」韓国の学生たちを最初にご紹介しよう。

 20名の韓国人学生と教師たち、キャンパスクルセードの方たちである。国際飢餓対策機構の神田英輔総主事の招きで駆け付けて下さったとお聞きした。黙々とよく働いて、ガレキ撤去、危険な力仕事等、3Kと呼ばれるような仕事を進んで引き受けて下さる。私どもの教会の倒壊ブロック塀も見る見るうちに粉々にして運び出して下さった。そのパワーたるや脱帽。「黙々と」と書いたが、実際は韓国語の出来ない私たちがしりごみしていただけで、英語で話しかけると、私たちよりもっと上手な英語で明るい返事が返ってきて、仲の良い友だちになった。そうした力仕事の合間に自然と賛美がはじまり、本当に謙遜なすばらしい人たちであった。 Park Augustine さん、どなたかお便りを出しませんか?感謝を込めて。

 そして、「頼もしい助っ人」大学生が続々と到着しはじめた。弘前大学の近藤宏君、彼は物資整理のベテランとなり慶応大学の野村知一君らと共に3Kを進んで引き受ける若手勇士である。福島詩葉さん、静仰治君、佐々木啓介君ら、長期滞在者も来て下さった。詩葉ちゃんの明るさは、そろそろ疲れが出始めた対策本部にいつも笑いを巻きおこし、私たちの疲れを忘れさせてくれたものである。

 この頃から本部の電話前に変化が起きた。そのはじめは、ウエスレアン・ホーリネスの林部太郎牧師。先生は松下先生や、同じようにすっかり本部席に釘づけにされてしまった景山定治牧師(塩屋キリスト教会)に代わって電話応対、ボランティア受け付け、仕事の指図等して下さり、しばらくは居て下さる筈であった。残念ながら2月17日、5日目にして、先生は突如東京に呼び出され、そのまま帰って行かれた。しかし、先生のアシスタント的存在であった関西学院大学の浅沼紀子姉がごく自然にその席に座り、あらゆる事務的な仕事をテキパキと片付け始めたのである。それまでは、会計、台所、あらゆる雑用と事務所のお母さん役だった子安偕子夫人まで駆り出されて、さぞ大変だったことと思う。この浅沼姉が電話の前に座りだすと、牧師たちはもう電話の側に寄りつきもせず、すっかり留守にしていた自分たちの教会の牧会にいくらかでも戻ることが出来たのである。後に、福島姉、静兄、佐々木兄も加わってこの体制は最後まで続いた。この時から本部長の子安先生が教会問安に出られるようになり、各被災教会の実情を肌で感じることが出来るようになった。被災教会と救援対策本部の心が通い始めたと言えよう。神さまが司令官、まさに神さまのお働きが実を結び始めた救援活動であった。

 少しさかのぼるが、2月9日(木)、使用不能となった三宮ビル2階から、神戸キリスト教書店の引っ越しがあった。ビルが傾いてエレベーターの使用が不可能、八階からの本の運び出しには少なくとも40人以上の人手が欲しい。しかし、他の仕事も大切……、祈りつつ神さまにお任せして、何と当日60人以上の人が集まったそうである。エホバ・エレ!! 本部から30名、支部から10名、このことだけのために来て下さった方もあったと聞く。

 沖縄のフレンチ先生、宮崎の日高先生ご夫妻、焼津の見城先生、広田信之兄、佐々木衣純姉、佐藤庄治兄、落合雄彦兄、澤浩士兄、東郷勲兄、田佳トマス先生、北澄さかえ姉、岡摂也先生、菊地みか姉、青木裕子姉……、本当は全員の名前を挙げて謝意を表したい。もっともっとたくさんの、すばらしい働きをして下さった先生方、兄弟姉妹に。


 活動期第3の時期は、前述の社会人クリスチャンが帰っていった2月27日から3月24日頃までである。この時期の主役は大学生、高校生たち。そして、なおも続いている長期滞在者たちである。

 この時期のボランティアは若い人たちが多かった故か、とにかく活動的、スピーディである。子供伝道、路傍伝道、トラクト配布……と伝道にも力を入れ始めた時期で、ハレルヤ・キッヅ、ハレルヤ・シルバーなどのチームを作り、各避難所を回って子供たちと遊んだり、まことに若い人にうってつけの仕事であった。

 2月23日〜3月1日まで、1週間来て下さった東京クリスチャンアカデミーの高校生たち、教師・父兄合わせて37名はその若さの代表格であろう。修学旅行を兼ねて神戸のボランティアにと聞いた。広島で原爆記念館を見て神戸入りしたせいか初めはおとなしかったが、すぐに馴れてとにかく陽気。出来るだけ力仕事にと、神戸聖約キリスト教会の倒壊塀撤去、水道修理のための穴掘りに送ったが、「すごいパワーですよ。たちまち片付けてしまって、隣の家の塀まで片付けてしまって……」と同教会の伊藤真理子牧師。そのパワーは本部の先生方を悩ませたようである。或る大学生曰く、「彼らを見ていたら、僕たちも歳を感じるなー」

 この時期は、2月23日:52名、24日:46名、28日:69名……等およそ1日40名ほど。唯、3月13日から1週間は70名を超える日が何日もあった。調べてみると、10名、9名、6名と団体を送り込んで下さった教会、7つもあると判った。春休みピークということであろうか。ボランティアに来て下さるのは個人が多いし、2回、3回と来て下さる方もかなりあり、その方の個人的意識に負うところ大であるが、教会の意識も大いに関係すると再確認した次第である。同じ教会から何度も何度もボランティアをお送り頂いた。

 食事や宿泊に関しては、もうすっかり軌道に乗っており、宿泊場所は一麦教会の他に、多聞福音教会、神の教会、垂水福音教会、西神聖書教会の五つが使われるようになっていた。ところが、若い人たちが困ったのがお風呂である。簡易の宿泊所であったため、お湯を沸かして体を拭くだけ、シャワーだけ、余りに使いすぎて家庭風呂がパンク寸前等いろいろあったが、時には銭湯に行っていたようである。ある夜、すいぶん離れた銭湯に出掛けた。帰り道雨になり、タクシーがなかなかつかまらず、歩いて帰って……、とうとう風邪を引いてしまった。

 そんなこんなで、元気な筈の何人かは風邪を引いて1日中寝込み、雑魚寝のような宿舎で風邪を移されては大変と別の部屋に追い出され、淋しくうろうろしていた人もいたようである。又、ボランティアに来ている間に誕生日を迎えてお祝いして貰った人もいる。一生懸命働くだけでなく、そんな日常生活を持ち込んでくれた若い人たちの活動期でもあった。緊張して走り回っていた時期から少しゆとりが生まれ、こんな非常事態の中でも、神さまの働きはいつもと変わらないと教えられた時期でもある。

 またこの時期、高校生のボランティアも来ている。まだ学校は終わっていない筈。聞くと年度末試験を終えてすぐ飛び出して来たと言う。震災のボランティアに来ていると、学校は出席扱いになるとか。大学生たちに混じって一生懸命働いて下さった。期間中、学校の先生から「どうしていますか?」という問い合わせもあったりして。


第三期(終焉期−しゅうえんき)

 物資も炊き出しも終わりの時期に来ていた。それぞれの被災教会の応急修理もほとんど終わり、これから先は素人の出番はないといった時期である。大学生たちの春休みも残り少なくなっている。3月25日以降のボランティア予約は締切りとなった。

 ここでお断わりしておかなければならないことであるが、被災地全体としてはこんな流れであったが、4月半ばにもまだ炊き出しをしている教会があり、急ピッチで進んでいるとはいえ、ガレキもまだまだ残っている。仮設住宅への引っ越しなど、松本通教会支部は依然として活動を続けている(ルーテル神学校内支部は3月31日で閉鎖、他のいろいろなグループも3月半ばでその活動を終えていた)。唯、私たちの救援対策本部は、幾つかの教会の牧師たちがそれぞれの教会を留守にして集まって来ており、そろそろ教会に戻らなければならない時期であった。支部の森田兄からも、「先生方はそろそろ教会に戻って下さい。後は僕たちでやりますから」と提案があった。彼らはこの活動を最初に始め、最後まで関わることになるのだろう。本当にご苦労さまと言いたい。彼らのように献身的にこの働きに没入して下さる方があるから、私たちも何とか走ってくることが出来たのであろう。これも神さまのご配慮なのだろうと思う。

 さて、救援対策本部店仕舞といっても、これがなかなか大変である。始めるよりも終わるほうがもっと難しい。物資はほとんど入って来なくなっていたから、残りの物を配り切ってしまおうと決めた。終えん期の少し前、3月22日のことである。本部、ルーテル神学校、松本通教会支部にあった物資在庫をトラック3台分、まだ活動を続けている芦屋チャペルに届けた。そして、翌23日、震災1週間後から始まった東灘本庄中央公園での炊き出しが終了。その1週間ほど前であったと思うが、炊き出しの責任を持っていたという青年2人が一麦教会を訪ねて来た。本庄中央公園にはかなり早い時期から、連日、応援チームを送り続けていた。「私たちの炊き出しは、来週で終わりにしたいと思います。長い間、応援をありがとうございました。電話ではなくて一言お礼が言いたくて……」 髪を一部金色に染めているような若者たちの挨拶である。道を迷いながら何時間もかけてやって来て、きちんと頭を下げている彼らを見て、目頭が熱くなった。こんな若者がいる今日の日本、まんざら捨てたものではない。

 3月31日、残っていた22人のボランティアが帰って、一麦教会のテーブルの配置にも元の姿が戻ってきた。NTTの臨時電話も返し、山のような書類も片付けられたが、牧師たちとまだ数名のボランティアが残っている。少なくなった人数ではかえって忙しい。子安夫人がまた台所に立ち、電話の前に牧師たちが戻ってきた。「一応終了ということだね」 その通り、4月になってからもまだ来て下さるボランティアがいた。いまだ苦闘している教会があり、ボランティアの必要がなくなったわけではない。必要なら再度用いられたいと願いつつ、終了宣言は出さないでいる。


 ボランティア総数716名、ボランティアを送り出してくださった教会118、海外からもたくさんの方たちが来て下さった。英語と日本語で、心が通い会った2ヵ月半であった。ここで感謝を込めて思い出すのは、何回もほとんど連日のようにボランティアを送り出して下さったニュージーランド大阪教会(高田義三牧師)のことである。東京の浅草橋教会(黒木安信牧師)からも、本当にたくさんの兄弟姉妹が何回も何回も来て下さった。東京・青梅キリスト教会からマッケミー宣教師らが2度も来て、朝から晩までエネルギッシュな活動を続けて下さった。また初期の頃一生懸命助けて下さった一麦教会の能條伶子姉、子安活恵姉(子安師ご長女)も……。大工、水道工事、電気工事等、これら専門の方々は本当に貴重なお働きをして下さった。中にはボランティアのボランティアとして、マッサージのご奉仕に来て下さった方々もおられる。垂水福音教会の宇仁菅一郎兄や聖三一コミュ二ティ教会の根本兄たちは全期間を通し、ほとんど毎日のように一麦教会に来て下さり、夜遅くまでボランティアの肩こりや腰の痛みを癒して下さった。このマッサージ師の方たちは、宇仁菅兄を中心に、ハンド・プレイズ・ネットワーックというグループを作り、避難所の小学校などでずっとボランティア活動を続けておられる。

 嬉しいことがある。幾つもあるが、その二つをご紹介しよう。一つは、ボランティアに参加された方たちの中に、イエスさまを信じ救われた方々が起こされたことである。ある方は、帰ったら洗礼を受けますと言っておられた。梅地桃子さん、山口綾子さん、緑川佳苗さん、岸本圭市さん、本当によかったですね。岸本兄からのお便りがあるのでご紹介したい。「主イエス・キリストの十字架と復活を、心から感謝します。イースターのすばらしい恵みの日に、ようやく洗礼を受けることができました。長い間の不従順を赦して下さり、また、これからも何度も神様に背を向けてしまうような者を受け入れて下さった神様の大きなあわれみと恵みとを感謝します。皆さんとの交わりと祈りが、頑なな僕の心を開いて下さったのだと思います。本当にありがとうございます。神戸の復興が守られるように祈り続けたいと思います。いつかまた、交わりの中に入れて下さい」

 そしてもう一つ、この活動に加わって、より主に熱心な、深みのある信仰に目が向けられたと告白される小野里直美姉、岡村陽子姉、岡田あゆみ姉、小島ひとみ姉、清水能亜姉、浜本紀子姉、そして、啓明女学院の近藤三知代さんは、4月、横浜の大学に入学後、ボランティア活動中に知合った方と教会の礼拝に出席するようになった……。みなさんの上に、主の祝福を心から祈ります。
 本当にありがとうございました。

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