福音と宗教

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Y、終章

3、福音と宗教

d、神さまがあなたに−3


 「信仰」ということで、この項ではこれまでに、信仰の対象としての絶対他者、神さまとイエス・キリストのことを見てきました。イエス・キリストは、神さまの呼び名「ヤハウェ」を引き継いだ呼び名です。しかしながらユダヤ人は、イエス・キリストを唯一の全能者である神さまに加えるのは神に対する冒涜であるとして、断固イエスさまの神性を認めようとはしません。そして、近代のキリスト教内部にも、キリストの神性には否定的な見解があるのです。ということで、もう少しイエス・キリストのことを続けていきたいと思います。

 イエスさまの神性を否定したのは、近代に限ったことではありません。紀元一世紀末には、メソポタミヤ地方を源流とする極めて高度な「善悪二元論」を基調とする宗教・グノーシス主義がギリシャ世界に蔓延し(「グノーシス主義」の項参照)、当時のキリスト教異端思想は、ほとんどがこのグノーシスに端を発しています。この異端は、さまざまな支流に分かれ、一律ではないのですが、イエスさまの神性については、真っ向から反対するのではなく、「別のもの」に誘導しようとしています。たとえば「アイオーン」は、ギリシャ語で「永遠」という意味ですが、ペルシャ地方に発生した一種の星辰信仰と思われますが、複数の「アイオーン」にいろいろな人格を与えてそれを「神の子(あるいは、神々)」とし、イエスさまもこの中に数えられています。そんなこともあってと思われますが、初期キリスト教では、イエスさまの神性が問題になりました。「キリストは神か(ホモウーシオス)、神に似た者か(ホモイウーシオス)」という論争で、世に言う「イオタ論争」です。この問題は、紀元325年、キリスト教をローマ帝国の公認宗教と定めたコンスタンティヌス大帝が招集した、アジヤ南部の町・ニケヤで開かれた全教会会議で取り上げられ、さまざまな経過はありましたが、「キリストは神である」と決着が付いたのです。

 これが現代に至るまで「正統神学」とされているのですが、間違えてはなりません。いくら「全教会会議」であっても、神さまのことを規定できるわけではありません。神さまのことは、神さまにしか決定出来ないのです。そして、神さまがご自身のことばと認める聖書には、「キリストは神」と、直接的、間接的に、全新約聖書と旧約聖書のあちらこちらに証言されているのです。何よりも私たちは、その証言を第一に聞かなければならないのではないでしょうか。

 その証言をいくつか上げますと、「良い知らせを伝える者の足は、山の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを知らせ、『あなたの神が王となる。』と、シオンに言う者の足は。」(イザヤ書52:7)、「良い知らせ、すなわち福音」はイエスさまの福音です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ福音書1:1)、この「ことば」はイエスさまを指しています。「トマスは答えてイエスに言った。『私の主、私の神。』」(同20:28)、「私の主で、私の仕えている神……。」(使徒行伝27:23)、「主」はイエスさまを指します。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス……。」(テトス書2:13)、「御子については、『神よ。あなたの御座は世々限りなく……。』」(ヘブル書1:8)、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの……。」(第二ペテロ書1:1)とあり、このように挙げていきますと、ページがいくらあっても足りません。ちなみに、キリスト教異端に数えられる「ものみの塔」で用いている新世界訳聖書は、これらの箇所を微妙に訂正し、イエスさまを神とはしない訳に改竄しています。その教えが、グノーシス主義的異端を引き継いでいるからでしょう。

 神さまと神さまの出来事は、全能にして創造主なるお方のことですから、私たちの目には隠されていて、見ることも触れることも出来ません。では私たちは、神さまのことを何となく感じるだけかと言うとそうではなく、聞くことが出来るのです。使徒パウロは、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストのことばから来るのである」(ロマ書10:16・協会口語訳)と言いました。《キリストのことば》とあるように、神さまがご自身を私たちに現わされたのは、イエス・キリストにおいてなのです。啓示者と呼んでもいいでしょう。イエスさまは啓示者であると同時に、啓示そのものであると聞かなければなりません。イエスさまの啓示、その中心は十字架であり、よみがえりであり、もういちど私たちのところにおいでになるという再臨の約束でもあるのですが、それはイエスさまのご人格すべてを指しています。そしてそれは、前項でも触れたように、イエスさまとともに歩んだ証人たちの証言でもある聖書を指しているとお分かりでしょう。それは、証人たちに内在したパラクレートス・助け主(聖霊)の働きのもとで文字に著わされたものであって、聖書は神さまのみことばであると前項で論じた通りです。聖書は、そのお方の助けを頂きながら、私たちの心の耳を澄ませて聞くものなのです。

 信仰の耳を澄ませて聞くことと、聖書自らが私たちに語ってくれることとは、表裏一体です。聖書を離れたイエスさまを信じる信仰は空疎なものとなり、信仰なしに読む聖書のことばは、イエスさまに行き着くことはありません。


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