福音と宗教

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Y、終章

3、福音と宗教

d、神さまがあなたに−2


 前回、信仰とは、絶対他者である神さまに向かうものであると聞きました。
 その神さまについて、旧約聖書には「エロヒーム」「ヤハウェ」と二つの呼び方があると触れましたが、実は、「わたしはある」というヤハウェの呼び名は、「わたしはいのちのパンです」「わたしは羊の門です」「わたしはよみがえりです。いのちです」……と、イエス・キリストが引き継いでいるのです。「わたしは…です(ギリシャ語のエゴー・エイミー)」が、これに当たります。英語など欧米語のI am. ですが、これは通常、be動詞に何らかの補語が伴わなければ文章として成立しませんが、主語が神さまの場合にだけ、例外とされています。逆に言えば、I am. またはHe is. とあるなら、そのIもHeも神さまを指しています。欧米語では、「ヤハウェ」の伝統が承認されているのです。

 新約聖書のヨハネ福音書は、「初めにことばあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1:1)と、ロゴス賛歌と呼ばれる序文(1:1-18)で始まっています。そこには、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(14)ともあります。ギリシャ語の「ロゴス」は「ことば」を意味しますが、ヨハネは、その「ロゴス」・「ことば」を、神さまから遣わされて世に来られ、人となって私たちの間に住まわれたお方、と証言しました。そのお方がイエス・キリストなのです。初め(註)から神さまとともにあった「先在のロゴス」は、ご自分を「人の子」と呼び、「地上を歩まれる神」となられましたが、わずか三十年の短い生涯を全力で歩まれ、そして、十字架に死なれたのです。遣わされて世に来られたのは、人の罪を贖う十字架に死なれるためでした。「贖う」とは、代価を払って買い戻すことです。神さまに逆らい罪に囚われた人間は、故郷である神さまのもとを離れてしまったのですが、イエスさまは、ご自分のいのちを支払って、罪を犯した者を神さまのもとに買い戻して下さったのです。十字架は、そのことを指しています。イエス・キリストが広く世界中で「救い主」と認識されているのは、その意味においてです。しかし、先在のロゴスであるお方は、死に囚われることなくよみがえられ、弟子たちの前に何回も現われて、ご自分がよみがえられたことを示された後、ご自分を遣わされたお方のもとに帰られました。それが「昇天」です。弟子たちは、そのイエスさまの「昇天」を目撃したのです(使徒1:9)。まことに不思議なことですが、「わたしはある」というお方・イエスさまは、もといた場所、天上の栄光に戻られました。その神さまの不思議を、福音書を読む人々に受け止めて欲しいと願ったのでしょうか。恐らくそれは現代の私たちをも視野に入れたことと思われますが、ヨハネは福音書の最後で、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)と締め括りました。

 私たちの絶対他者・神さまを信じる「信仰」は、このお方に捧げられるものなのです。
 「信仰」はイエス.キリストに捧げられるものと、私たちはそう聞いて来ましたし、その言い方に違和感を覚える人は誰もいないでしょう。しかし、この「信仰」ということで、異邦人の使徒と称されるパウロは、極めて興味深いことを、ロマ書とガラテヤ書の二箇所で言っています。それは、「イエス・キリストを信じる信仰」(ロマ3:22、ガラテヤ2:16・新改訳)ということですが、大部分の日本語訳では「〜を信じる信仰」というニュアンスに訳されています。大方の「信仰観」に照らし合わせても、これはごく普通の言い方と思われますが、ギリシャ語原典では、いづれも、「イエス.キリストの信仰」となっているのです。異読の写本はありませんので、初期教会では問題にされていなかったようです。しかしこの言い方を認めますと、信仰の主体が人からイエスさまに移ってしまうという問題が浮上し、これは近代「イエス・キリストの所有格信仰」と呼ばれ、神学上の課題となって来ました。捧げられる信仰を、立ち昇る良き香りと受け止め、絶対他者の有無に関わらず、信仰の主体はどの時代、どの宗教おいても「人」にあるとするあり方に、疑問を挟む余地はなかったのです。キリスト教とて例外ではありません。ですから、ロマ書とガラテヤ書の二箇所には問題があるとばかりに、近代になって訳された大方の日本語訳は、「〜を信じる信仰」(新改訳)、「〜への信仰」(新共同訳、岩波訳、キリスト新聞社訳)と、言い換えています。

 しかし、少々不自然ではあっても、元来、「信仰」ということばの真意は、真実であり、信頼であり、約束、確証である……とする内面に宿る良き部分で、決して裏切ることなく、他者に対して誠実であり続けることですから、この「信仰」は、本来そのような良きもので満たされているお方にこそ、捧げられるにふさわしいと思われます。これを「信仰」と訳すから問題となるのであって、「真実」または「誠実」と訳すなら、そこから溢れ出た良きものが私たちを突き動かして行く……、と言えるのではないでしょうか。青山学院大の旧約学教授・故浅野順一は、「キリストの真実に服従をもって答える信仰」(旧新約聖書神学辞典・新教出版社、1961)と言っていますが、傾聴に値する見解ではないでしょうか。

※註:万物の創造者である神さまには、初めも終わりもありません。これは読者に合わせた言い方で、初めや先在という言い方は、神さまの永遠を意味しています。



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