福音と宗教

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Y、終章

3、福音と宗教

d、神さまがあなたに−1


 前回、聖書〈正典〉のために殉教していった人たちがいたことに触れましたが、その流された尊い血は、彼らの信仰を語って余りあるものではないでしょうか。

 今回は、福音のもう一つの中心、「信仰」に踏み入っていきましょう。
 「信仰」と聞きますと、すぐに「宗教」のことであると思われるでしょうが、そう感じる人たちのほとんどが、「信仰」と「信心」とを同一視しているようです。しかし、これは明確に区別しておかなければならないことです。「信仰」は絶対他者との関わりの中で発生するものですが、「信心」は、絶対他者がいるいないに関わらず、信心する人の内面だけに発生するものだからです。それも絶対他者に向けられるものではないかと反論する人がいますが、その絶対他者は、信心する人の内面に育てられた、極めて主観的な存在に過ぎません。絶対他者の存在は、信心する人とは切り離された外側で、自ら「存在する」と主張するものでなければなりません。その条件を欠いたまま、もの言わぬ対象者に信心を傾ける……。これまでに述べて来た多くの宗教は、そんな範疇にあるものでした。諸宗教が、祭壇や僧衣などで飾り立て、教義を増やし、大仰な儀礼に偏るのも、絶対他者という権威を欠いた、その穴を埋めるためではなかったでしょうか。きらびやかな祭壇等は、キリスト教とて例外ではありません。それは、歴史を積み重ねて、中身が乏しくなって来たからではないでしょうか。

 このように聞いて来ますと、「信仰」は絶対他者を擁立し、「信心」は自己を擁立していると言えましょう。信仰は、絶対他者に向かうものなのです。
 絶対他者を擁立している宗教とされるのは、イスラム、ユダヤ教、キリスト教の三つですが、イスラムの「アツラー(神)」には、ムハンマドがその宗教を打ちたてる以前に、その地で「信心」されていた神々を引き継いでいる部分があり、厳密には、省かなければなりません。巡礼で知られるメッカにあるムスリムの中心聖所「カーヴァ神殿」には、古くからの神々崇拝が認められます。また、ユダヤ教のヤハウェ(神を指す「主」)も、確かに実体を伴う絶対他者でしたが、ローマ時代の第一次、第二次ユダヤ戦争以降、その啓示であるトーラーに代え、ラビ(律法学者)たちの語録・タルムッドやミシュナを聖典とするなど、実体としてのヤハウェを見失ってしまった感があり、省かざるを得ません。絶対他者を絶対他者と認識するためには、絶対他者からの明確な啓示が絶対条件なのです。そして、近現代の批評的神学を標榜する人たちが、聖書を「啓示の書」という座から人間理性の書に引きずり下ろしたときから、多くのキリスト教教団もまた、絶対他者たる神さまを見失ってしまったのです。「神は死んだ」とする神の死の神学(モルトマン)などは、その傾向に拍車をかけたと言えるでしょう。そんなキリスト教教団もまた、絶対他者を擁立するところから省かなければならないでしょう。すると、キリスト教信徒であることを標榜するより、イエスさまの福音に立ち、唯一聖書(旧新約聖書)だけを絶対他者(神さま)の啓示の書として標榜する、そんなわずか一握りの教会、キリスト者たちだけが最後に残る、と考えなければならないでしょう。

 さて、絶対他者である方の啓示の書・聖書で、その方はご自分のことをどう主張しておられるのでしょうか。聖書は絶対他者のことを、紀元前二千年近くも昔から、「エロヒーム」「ヤハウェ」と二つの呼び名で言い表わして来ました。有名なモーセの筆によるとされる創世記には、万物の創造者が人間を造られた時のことを、こう記しています。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きるものとなった。」(2:7) ここに出て来る「神」がエロヒームであり、「主」がヤハウェです。今まで絶対他者と言って来ましたが、ここからは、エロヒームを日本語訳聖書は「神」と言っていますので、その伝統に従い、「神さま」と呼ぶことにします。「主・ヤハウェ」のことは、神さまご自身のことばから聞いていきましょう。旧約聖書、出エジプト記からです。

 飢饉に見舞われ、エジプトに移住したイスラエルの人たちは、六十万人ほどに増え広がっていましたが、その大人数がエジプトの脅威になって、彼らは非常な重労働を課されて苦しみ、その叫びを神さまが、「聞いた」と言われるのです。神さまはイスラエルをカナンの地(パレスティナ)に移そうと、指導者にモーセを選ばれました。そこで、イスラエルに遣わされようとするモーセが、神さまに訴えます。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。」神さまが答えられました。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」「イスラエルに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」(3:13-15) 「主」とは、「わたしはある(ヘブル語ではハヤー、I am.の意 )」という存在を示すBe動詞で、ヤハウェは、そこから派生した呼び名と考えられています。


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