福音と宗教

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Y、終章

3、福音と宗教

b、恵みの契約−1


 現代の宗教界が、宗教の原点は神と私たちの関係であるとしている見解に触れましたが、現代は、その関係を「神は死んだ」ということばで断ち切ってしまった時代のようです。一九六五〜六九年と少し前のことですが、近現代の宗教思想家の間には、「神の死の神学」などという神学がもてはやされました。現代人にとって、神は文化的なアクセサリーか、一つの理念でしかないと、社会学的に「神」ということばは世俗化され、神は死んだという、社会の変革に伴う議論ですが、模索されている宗教の再構築が、その辺りのことをどう解決していくのか、注目しておかなければならないところです。というのは、現代人がその関係を断ち切ってしまったのは、自分たちの宗教離れという、恐らく、それが近代人の証しとでも言うかのように、マルクス主義の影響による意識のもとで、「神は死んだ」と、自分たちに向かって宣言してしまったことに基づいているからです。きっと、宗教の再構築は、世俗化された現代においても、「神は死んではいない」とする、新視点から始めなければならないと感じているのでしょう。「神の死の神学」というネーミングは、そんな人たちの意識下によるものではないでしょうか。するとこれは、宗教の再構築ではなく、社会の変革に振り回されない自分たちの意識の再構築が急務の課題ではないかと思われます。

 しかし、残念ながら、宗教の再構築とか意識の再構築といった作業は、つまるところ、堂々巡りでしかなく、またぞろ宗教の貧困という、同じ結果に陥ってしまうことになってしまうのです。思い切って発想を、「神は死んだ」とか「神は死んでいない」とする議論から、180°転換する必要がありそうです。なぜなら、「神は死んだ」から「神は死んではいない」に、さまざまな理由をつけて意識を換えようとしても、それは、議論している人の意識下から一歩も出ることのない、不毛な作業と言えるからです。主体を人から神に切り替える以外に、この再構築(本当は新構築ではないのか)はあり得ないのではないでしょうか。

 実は、神と私たちとの関係を神の側から見つめたものがあります。福音がそれです。福音は、社会構造がどう変化しようと変わらない立場、つまり、神の側から私たち人間に提供された人間救済という出来事なのです。「キリスト教」が「啓示の宗教」と呼ばれるのは、そうした理由によります。もっとも、その場合、「キリスト教」とか「宗教」と呼ぶのは適当ではありませんでしょう。

 聖書はそれを「契約」ということばで提示しています。神さまと私たちとの契約ですが、残念ながら私たち人間には、その契約を締結する能力がありません。
 「契約を締結する」とは、両当事者が契約に伴う条項を守ると、一致、承認することであると言っていいでしょう。ところが、神さまと私たちとの契約は、神さまが一方的に与えた戒命を、私たちが「守り、従う」なら祝福を与えるというもので、私たちからの提示条項は何もありません。神さまと私たち、それは決して対等な契約者ではないのです。私たちには神さまとの契約を締結する能力がないとは、そのことを指します。しかし、この契約締結に私たちが全く関与することがないかというと、一概にそうとも言えません。神さまは私たちに「守り、従う」か?と問いかけておられるのです。その時点で私たちには、「守り、従う」と応える義務と責任が生じましす。神さまと私たちの契約基本形は、「神さまが提示し、私たちがそれに応諾する」ことなのです。旧約聖書の契約は、そうした概念に基づいています。

 ところが、私たちが常に「応諾するか」というと、必ずしも、そうとは限りません。むしろ、「守らない」「従わない」ケースの方がずっと多かったと言っていいでしょう。そのために、新しい契約が生まれました。イエス・キリストの贖罪による私たちの救い、すなわち福音です。そこには、「守り、従わなければならない戒命」は何もなく、むしろ、私たちの守らない、従わない「罪」のために、神さまが赦しと祝福を用意され、「さあ受け取りなさい」と、私たちを待っていて下さるのです。

 福音と宗教の根本的な違いが、浮かび上がってきたようです。

 イニシャティブを握っているのが神さまか、それとも人間が……、その違いなのですが、生ける実在の神さまだからこその福音なのでしょう。


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