福音と宗教

75


Y、終章

2、宗教の行方(3)

※ 宗教に潜むもの−2

 教団となった宗教は、人間の思考の産物として成立してきました。しかし、だからと言って、人間がそれら宗教をコントロール出来たかと言うと、教団としては「はい」と言うことが出来ても、それら教団の背後に潜む「宗教」まで手の内にあるかと問われると、果たして「はい」と言い切れるでしょうか。「宗教」には、人間が造り上げた教団とは違う何かが、それ自体で走り出す何かが、奥深いところに潜んでいると言えそうです。

 なぜなら、これまでいろいろな宗教を見て来ましたが、一旦造り出された宗教は、造った人間(たとえそれが教祖であっても)の手を離れ、逆に、人間を支配することになると思われるからです。しかも、その宗教は、決して善なる方向に向かって一人歩きすることはなく、造った人間を良い方向に導くことは、歴史の中を探っても、皆無としか言いようがありません。まるで宗教は、人間を悪い方向へ、悪い方向へと連れて行くために存在するかのようです。

 キリスト教を嫌う人たちから、よく言われることがあります。キリスト教は、中世の魔女狩りやアウシュビュッツのユダヤ人虐殺など、理不尽なことを数多くして来たではないか。それなのに、そんなことはなかったように、愛や平和の宗教などとよくも言えるものだ……と。全くその通りで、いささかも反論できません。しかし、それでも人々は、キリスト教には愛があり、善意が溢れていると疑いませんし、個々のクリスチャンはほとんど、イエスさまのためだからと、損得なしに隣人のために良いことをしようとしているのです。それなのに教会は、しばしば悪魔がするようなことに手を染めて来ました。それは隠しようもない事実です。そしてそれは、個人レベルでも起こり得る事柄でしょう。しかし、他のどんな宗教にも勝って愛に満ちていると思われているキリスト教でさえ、歴史を突きつけられますと、悪い方向へ、悪い方向へと走り出してしまった過去を持っているのです。それはきっと、宗教としてのキリスト教の持つ部分ではないかと思われます。いや、教団は人間が動かしているのですから、悪いことをするのは、人間(国家も含め)そのものなのかも知れません。しかし果たして、教団を動かしているのは、本当に人間なのでしょうか。教団を宗教教団たらしめている宗教そのものが……と、考えることは出来ないでしょうか。

 歯切れの悪いことばかり言って来ましたが、思い切って一歩先に踏み込んでみましょう。
 現代という時代に、非科学的なことに踏み込むようで私自身にも抵抗があるのですが、人間の内部か外部のどこかに巣くう何者かが、宗教という住処を得て働き始めるとこうなる……のではないでしょうか。その何者かの議論を肯定するなら、論理的に、宗教の一人歩きも説明がつきます。実は、聖書は、神さまに敵対する者・サタンとその配下の、悪霊の存在を肯定しているのです。神さまが実在のお方なら、それに敵対する者もまた実在すると言っても、決しておかしくはないでしょう。その悪い力が宗教を住処にしているのではないかと、私は密かに、そんな危惧を抱いています。霊能も霊媒も占いも、そして、宗教そのものが悪霊の住処になってしまう。そう考えるなら、霊能も霊媒も占いも、本物だと言えるでしょう。聖書は、サタンや悪霊が天使の装いをまとっていると言っています。彼らが天使なのか、サタンなのか、私たち人間がそれを指摘することは出来ません。しかし、いづれにしても、その知恵は人間の力以上のものであって、その能力も力も、人間をはるかに超えているのです。デルフォイ神殿の託宣が、いかに迷信に囚われた古代社会のことであったとしても、国々を巻き込んで、人間を戦いや争いに駆り立てて行ったのは、とてもギリシャ神話のアポロンが為せるわざとは思われません。そこにサタンや悪霊が絡んでいたとしたら……、とても分かりやすいではありませんか。なぜなら、サタンとその配下たちは、神さまと神さまが愛される人間に、徹底的に敵対しようとしているからです。きっと、神さまに敵対しても勝ち目がないと、その分、彼らの憎しみは、人間に向かっているのではないかと想像するのです。

 視点を変えてみますと、彼らは、神さまに愛されている人間が羨ましいのかも知れません。人間の存在理由は創造者たる神さまにあるのですが、その根本部分を横取りし、「おまえたちの主・あるじは神さまではなく、おれたちなのだ」と、人間の支配者・「主」であることを主張するために、彼らは、人間の故郷にも似た内面の中心部分・宗教を占拠したのではとさえ思ってしまいます。

 果たしてそうなのでしょうか。とても結論が出せるなどとは思われません。
 しかし、この問題、宗教学の命題として、いつか取り上げられる日が来たらと期待します。


Back Index Next