福音と宗教

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W、日本人の宗教

3、日本のキリスト教(5)

b、プロテスタント史−4

 札幌バンドを語る時、内村鑑三を中心にした、無教会主義キリスト教に触れないわけにはいきません。札幌バンドは、無教会主義キリスト教であるという誤解まであるのですから。もちろんそんなことはなく、前述した「散り散りになった卒業生たち」には、教派こそバラバラですが、忠実な教会生活を送った人たちが多数います。しかし、内村が主催した無教会の集会は、極めて日本的なものであると評価されています。恐らく、旺盛な独立心という札幌バンドの特徴を、もっとも良く現わしたものと言えるでしょう。無教会という言葉は、内村の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて用いられましたが、その後彼は、「無教会」という名の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとしました。内村の盟友によりますと、それは彼が、教会や宣教師から「はなはだ不快な」仕打ちを受けたことによるのだそうです。これは教会主義(或いは、教派主義)を否定するものであって、福音そのものを否定してはいません。会堂を持たず、牧師制を取らず、聖礼典を行いませんが、決してそれらを否定しているわけではありません。ですから、無教会は、「反教会主義」ではないのです。もっとも、内村以後の無教会教師たちの中には、反教会の旗印を掲げる人たちもいたようです。「集会」では、聖書講義と称する説教が行われ、讃美歌も歌われています。礼拝が行われているのですね。ただ、組織化することを、意識して避けているのでしょう。本部を持たず、宗教法人ではない集会が、大多数を占めていると思われます。それも一つの教会観ではないでしょうか。


 明治初期から中期にかけての草創期を、無教会主義の人たちばかりでなく、日本の各プロテスタント教会は、日本人教会という道を歩き始めていました。欧米の宣教師たちも、一部の人たちを除いて、ほとんどがその歩みに好意をもち、バックアップしていたようです。そして、時には大リバイバルといった現象も引き起こしながら、多くの人たちを招き入れ、明治末期までの安定期を迎えました。
 ここまでは、すこぶる順調な成長と見ることが出来ましょう。

 ところが、明治維新以後の日本政府は、近代文明の進んだ欧米に追いつこうと富国強兵策を取り入れます。明治27年(1894)の日清戦争を勝利したためでしょうか、明治37年(1904)の日露戦争には、軍国主義者ばかりでなく、一般国民の大半が主戦論に浮かれ始めます。そして、そんな世相に、教会も巻き込まれ、主戦論が、教界内の大勢を占めるようになりました。もちろん教会には、信仰者の良心ともいうべき、非戦論も一部に根強く残っていましたが、きっと教会は、そんなイメージで見つめられていたのでしょう。キリスト教は国賊であると敵視され、浅草、下谷など東京の十数教会が、暴徒のため焼き討ちにされました。しかし、主戦論という国の方針と妥協し始めた日本の教会は、やがて、戦勝のために大挙して神社に参拝し、祈祷会では、戦勝を祈るという愚を繰り返すようになりました。太平洋戦争の時のことです。ここに、神さまの目よりも人間の目を気にする、宗教に堕していった教会の姿が見られます。昭和6年(1931)の満州事変を契機に、日本は国をあげて神道イデオロギーによる愛国運動が盛んになり、教会は反国家主義と見なされ、激しい迫害が再燃しました。そのやり玉の最初は、カトリック教会に向けられ、軍部、在郷軍人団、青年団による奄美大島各地の教会等への焼打ち事件などが頻発します。そのため、大島の信徒は、潜伏キリシタンと同じ状態に追い込まれたそうです。昭和10年、カトリック全国教区長会議は、ついに日本主義への転向を決意、そして、この頃から、プロテスタント教会も国粋色を濃厚にしていきます。政府からの強い要望(強制)を受け、牧師が信徒を引き連れて神社に団体参拝するようになったのも、このころからです。

 昭和14年(1939)、宗教諸派の国家統制を目指した宗教団体法が国会を通過、カトリック教会と信徒数5000名以下の小教派を除くプロテスタント各教派は、一括して「日本基督教団」に組み入れられることになります。小教派が除外されたのは、外国ミッションの依存度が高いと見なされていたからのようです。除外された小教派は、にわかに各派代表の懇談会を開くなどで合同を模索し、皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会で、全基督教会合同実現の決意を表明しました。そのように、教会の大半が国家権力に屈したことに、今の私たちも、目をそらしてはならないのではないでしょうか。


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