福音と宗教

57


W、日本人の宗教

3、日本のキリスト教(2)

a、キリシタン史−2

 キリシタンの歴史を見ながら、その迫害の原因に少し触れてきました。いづれも宣教師を送り込んだ欧米諸国の動向が引き金になったと思われますが、キリシタンたちの信仰を、秀吉や家康たち、時の為政者たちはどう見ていたのでしょうか。

 何年か前、山陰地方のキリシタン遺跡巡りをしました。その多くは、お寺の墓地の一角に別の区画があり、長らく差別されていたのでしょうか。ひっそりと朽ち果てるようなたたずまいをした、彼らの墓地がありました。よく見ると、戒名を刻みつけた墓石に、かすかにキリシタンの痕跡が残っています。迫害のさ中にも信仰を守り抜き、従容として殉教していった人たちに、キリシタン墓地に葬られた人たちが重なってきますが、そのほとんどが貧しい農民だったことに驚かされます。彼らは領主よりも「でうす」(天主)や「さんたまりや」を重んじていたのです。きっと、虐げられて貧しく、他に失うものを何も持たなかったからでしょうが、そんな人たちの中に、純粋なキリシタン信仰が育ちました。それほどまで人を惹きつける宗教は、すでに日本には存在していませんでした。日本古来の宗教とされる神道には昔日の面影はなく、仏教からもそんな魅力は失われていました。しばしば発生する新興宗教も、最初の頃の魅力は時間とともに色あせて、唯一キリシタンの信仰のみが輝いていましたから、為政者たちはその輝きを恐れたのではと、強く感じました。

 キリシタン史の中で驚嘆すべきことは、彼らの殉教だけではありません。度重なる殉教と追放にも日本伝道をあきらめず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会……などの宣教師たちは何度も日本潜伏を図り、実際に潜伏して平均4〜5年を伝道のために働き、ついに発覚して殉教、というケースが非常に多かったと報告されています。彼らはひそかに各地の隠れキリシタンの群れを巡回し、そこで新しい受洗者を……という働きをしていましたから、地下にもぐった隠れキリシタンには、細々ながら密かな連絡網があったのでしょう。その信仰の力強い生命力に驚嘆させられます。禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月に、出来たばかりの長崎・大浦天主堂で、フランス人ベルナール・プティジャン神父の前に隠れキリシタンが現われて信仰告白を行い、その後、続々と隠れキリシタンが神父のもとに詰めかけたそうです。彼らが祈りと洗礼と種々の典礼暦を守っていたことと合わせ、「信徒発見」のニュースが欧米にセンセーショナルに伝えられました。

 生き残った隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流しましたが(その数およそ1万人)、まだ禁教令が解かれたわけではありません。明治維新政府も禁教令を継続し、依然として投獄や拷問、流刑など、キリスト教弾圧は全国規模で行われていました。欧米諸国からの猛烈な抗議を受け、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは、1873(明治6年)になってからのことです。


b、プロテスタント史−1

 キリシタン禁教の高札が撤去された明治6年を境に、プロテスタント教会の宣教師たちが大挙渡来して来ます。日本がキリスト教の挑戦にどう応えるか、もう一度のチャンスを神さまから突きつけられたと見る教会史家がいますが、まさにその通りなのでしょう。日本の近代化に深い影響を及ぼしたキリスト教は、おもにプロテスタントでした。そのことに留意しながら見ていくことにしましょう。

 神戸の私たちにとても惹かれる逸話がありますので、そのことから紹介します。米国ボストンの町に、W.ローブスというクリスチャン実業家がいました。彼は自宅を開放して毎月一度「世界伝道祈祷会」を行なっていたのですが、ある日の集会で、祈りの後に献金を募ることになり、竹籠が回されて27ドル8セントが献げられました。「この献金をどこの国の伝道に用いようか」との問いに、その竹製のかごが日本製だったことから、「日本のために」と提案され、以後の献金はすべて日本伝道のために積み立てられ、その総額は4000ドル以上になったそうです。やがてアメリカン・ボードが神戸最初のプロテスタント宣教師・若きD.C.グリーン夫妻を送り出す時(明治3年)、それが彼らを支えるために献げられました。先立つこと実に、40年前のことです。

 明治3年といえば、日本はまだキリスト教禁止の真っ最中でした。しかし、ペリー提督来日による三港開港以来、欧米諸国は多くの宣教師を日本に送り込み、日本人伝道に備えていたのです。


Back Index Next