福音と宗教

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W、日本人の宗教

2、仏教(4

e、鎌倉仏教−2


 鎌倉仏教には、非常に特異な、当時の新興宗教とも言える日蓮宗があります。

 これは、比叡山に入山した日蓮が32歳の時に立教宣言した宗派で、政治に並々ならぬ興味を示し、日蓮自身、有名な「立正安国論」を世に出しています。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が念仏・禅・真言・律などを信仰することにあると仏教他派を非難し、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれています。また、痛烈な政府非難をメインとする辻説法や折伏と呼ばれる布教活動など極めて戦闘的な姿勢を貫き、その過激な言動から、日蓮はしばしば政府当局から迫害され、伊豆や佐渡などに流罪されたり、念仏派の人たちから襲撃されたりしましたが、その強烈な人格に共鳴する人が多く、次第に入門する人たちが増えていきました。

 彼は比叡山で、天台宗の基本経典である法華経に出会い、これこそ最高の経典であるとして、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え日蓮宗を開宗しましたが、大声でお題目を唱え、また、誰彼なく折伏することは、その後の日蓮系宗派の大きな特徴になっています。現在、日蓮正宗とされる身延山久遠寺を総本山とする連合宗派は直系信徒330万人を擁し、その系統には、新興宗教である創価学会、立正佼成会、霊友会、佛所護念教団等があり、総計約400万世帯前後の信徒がいると言われますが、これらはカルト宗教集団のはしりと見ていいのではないでしょうか。


f、南北朝・室町時代の仏教

 1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代に入り、政治の中心地は京都に移りました。

 この時代は、武家と仏教(特に禅宗)が非常に接近した時代と言えるでしょう。曹洞宗は地方や庶民の間に広まりましたが、臨済宗は幕府に保護されます。建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の鎌倉五山は、南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺といった京都五山にその場所を譲り、北山文化(足利義満の金閣寺など)や東山文化(足利義政の銀閣寺など)が華やかに花開きました。また、禅宗の影響を受けた水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれたことも、この時代の仏教文化の特徴でしょう。

他宗派では、日蓮宗が京都の商工業者間に普及しましたが、特に、浄土真宗の蓮如が叡山などの妨害を乗り越えて作り上げた、本願寺教団のことを取り上げなければなりません。これは、門徒と呼ばれる強大な信徒集団を獲得し、応仁の乱以後、守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵するほどにまでになりました。又、一向宗とも呼ばれるように、彼らは信仰の下に団結して、旧来の守護大名勢力を逼迫し、中でも、加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆が有名で、数々の守護大名を圧し、自治権(主に徴税権と裁判権)を拡大しました。そのため、その支配を拡げようとする戦国大名は、これらの勢力と妥協するか対立するか選択を迫られ、多くは妥協の道をとりました。こう見ますと、仏教なのか政治集団なのか分かりません。どの時代のどの国でも、宗教というものは時の権力と結びつき、その権力闘争に巻き込まれていく傾向がありますが、日本仏教史の中でも、特に室町時代は、そういった傾向が強いのではないかと感じられます。


g、戦国時代の仏教

 日本史の時代区分で、室町時代中期に起きた明応の政変(1493)から室町幕府崩壊(1573)までは、戦国時代と呼ばれますが、この約80年間は、幕府が力を失い、地方の武将たちが領地拡大に走り、下克上が頻繁に行われた時代でした。上に触れた一向一揆も多くは、この時代に頻発したようです。

 多くの領主たちは一向宗と手を結びましたが、天下人を目指して急成長してきた織田信長や後継者豊臣秀吉などは、これを徹底的に弾圧、伊勢長島の願証寺などは、信長の大虐殺を受けて壊滅しました。そして、石山本願寺が落とされて以降、一向一揆は沈静に向かい、浄土真宗は次第に力を失っていきます。諸国の一向門徒の総本山であった石山本願寺は、さながら戦国大名家のような強固な組織を誇っていましたが、顕如の時代に信長と対立、休戦を挟んで前後十年に及ぶ石山合戦を経て、石山から退去しました。信長の死後、豊臣秀吉がここに大坂城を築いています。また、顕如の子の代に浄土真宗は兄・教如と弟・准如が東西本願寺派として分裂しましたが、これは、徳川家康が本願寺勢力の再起を嫌って、故意に分裂させるための政策だったと言われています。信長はまた比叡山を焼き討ちするなど、仏教寺院の勢力とその要塞化を徹底して排除しました。

 安土・桃山時代:豊臣秀吉は石山本願寺跡に大坂城を築き、また刀狩りを行うなど僧兵の排除に努めましたが、彼は基本的には、寺院勢力との仲を良いものにしようとしました。中でも寺院の破壊が激しかった大和には、弟秀長を派遣し、寺院との関係修復を図っています。これは、彼らの勢力を恐れたからではなく、恐らく、手なずけることで、不要の摩擦を避けたいという意図があったのでしょう。少し時代がさかのぼりますが、室町時代後期(1549)にフランシスコ・ザビエルが来日、キリシタンが伝来して来ました。世的権力に翻弄されて衰弱していた仏教は、そんな新しい教えに対抗する手段を持たず、一層形骸化し、新しい時代(江戸時代)に生き延びる道を模索することになります。


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