福音と宗教

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W、日本人の宗教

2、仏教(2

b、初期仏教−2


 日本の初期仏教が絶頂期を迎えたのは、奈良時代でした。その頃の、華やかな仏教宗派を一瞥してみましょう。いづれも中国で形成された宗派ですが、聖徳太子没後まもなく三論宗が、次いで法相宗が伝えられました。この両宗に付随して、成実宗・倶舎宗が入ってきましたが、それは三論・法相両教学を学ぶための、補助的学問宗派にすぎなかったようです。そして、奈良時代になって、華厳宗と律宗などが伝えられました。「南都六宗」と呼ばれるこれらの宗派は、その教えを日本人民衆に広めようとはせず、寺院も原則的には官立で、国家の庇護のもとで、鎮護国家の祈願所としての役割を担い、或いは、仏教教理を研究するだけのものでした。すでに中国において、そのような宗派だったようです。聖武天皇などが送った遣隋使たちは、一種の留学生だったのでしょう。彼らは仏教というよりも、学問体系としての中国文化を持ち帰って来た、と言えるのかも知れません。伝教大師(最澄)が、南都六宗の高僧たちに天台宗の法華一乗思想を教えましたが、高僧たちはその講説に反駁することができず、伝教大師を讃歎する旨の書状を、桓武天皇に提出したそうです。以後、南都六宗の教勢は、次第に衰えていきました。


c、空海と最澄

 中国の唐代中期・平安京政府は、何回にも分けて唐へ留学生を送り出しますが、中でも新しい時代の日本仏教界を背負った、天台宗と真言宗の開祖・最澄と空海を見ていきます。

 まず、最澄からです。彼は12歳で出家、19歳で東大寺戒壇院で戒を受け、僧侶として、エリートコースを歩むことになりました。ところが彼は、その出世コースを捨てて比叡山に籠るのです。これが桓武天皇の目にとまったのか、804年、38歳の時に、中国に短期留学しました。そして天台教学、禅、密教を学び、805年に帰国。帰路の途中、神戸・和田岬に上陸し、最初の密教教化霊場である、能福護国密寺(現在は能福寺)を創設します。その後、比叡山に天台法華宗を開宗しました。これは法華経を根本とするもので、中国の天台宗とは異なり、密教的要素の濃い新仏教宗派と言えるようです。

 天台宗の開立は806年、桓武天皇が、天台宗を学ぶ者から、2人に得度を許可したことによります。そして、この年、最澄の最大理解者だった桓武天皇が亡くなりました。この後、最澄にとってつらい日々が始まります。813年、最澄は空海の弟子になって、『理趣釈経』の借用を申し込みました。しかし、「ほんとうに密教の真理を知ろうとするなら、真の密教僧となり、行を修める覚悟で来なさい」と断られ、以後、2人の英雄が出会うことはありませんでした。最澄は、天台と真言の調和を考えていたようですが、空海は、天台や華厳の上に真言を位置づけていたのでしょう。

 一方、最澄と同年(804年)の中国留学生に、新しい仏教界の双璧となる、空海がいます。彼は、正規の遣唐使留学僧(留学期間20年の予定)として、唐に渡りました。しかし、最澄は、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉禅師の一人に任命されており、仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海は、まったく無名の一沙門でしかありませんでした。

 中国に着いた空海は、長安でしばらく梵語を習った後、留学の目的だった密教を学ぶために、青龍寺の恵果を訪ねます。恵果は真言正統第七祖に当たる人で、空海が気に入ったのか、短期間に金剛・胎蔵両部の大法を授け、遍照金剛の号を贈ります。空海は、真言第八の師位を継いだことになります。その後も多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など、膨大な数の資料を収集し、さらに書と、筆・墨の製法や土木建築のたぐいまで、精力的に先進国中国の文化を学び、帰国しました。彼は書と詩文の才能に恵まれ、知的好奇心旺盛でしたが、そんな空海の持つ最新の知識に興味を示す、若い嵯峨天皇に巡り会いました。その親密な出会いがあって、816年下賜された高野山に金剛峰寺を建立、823年、同じく東寺を真言宗の根本道場としました。天台密教を台密、真言密教を東密と呼ぶのはそのためです。真言宗を盤石なものとする、基礎を据えたと言えるでしょう。


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