福音と宗教

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W、日本人の宗教

2、仏教(1

a. 伝来の経緯

 天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の現代日本仏教を代表する7宗派の寺院数は73392、総信徒数は5459万人とありますから、他宗派や仏教系新興教団まで数えますと、日本はまさに仏教国と言えそうです。しかし、仏教はもともと中国から伝来した外来宗教です。それが、なぜこんなに日本各地に、これほどまでに根付いたのでしょうか。加えて、日本の仏教が歩んだ独特の歴史や形態など、しばらくの間、日本の仏教を取り上げていきましょう。

 日本書紀によりますと、日本に仏教が伝来したのは、552年に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られたときとされています。しかし現在では、聖徳太子の伝記などから、仏教伝来は538年と考える人が多いようです。いずれにしても、仏教の伝来は飛鳥時代と考えていいでしょう。もっとも、非公式な民間交流の中では、もっと早い時期だったようですが……。仏教伝来時のエピソードを、日本書紀から一つ紹介しましょう。欽明天皇が、仏教信仰の可否について問うた時、物部尾輿や中臣鎌子などが反対した中で、渡来派の蘇我稲目が「西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか」と、仏教に帰依したい言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えたそうです。稲目は私邸を寺として仏像を拝んでいましたが、疫病が流行し、「外国から来た神を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ」として、寺を焼き、仏像を難波の掘に捨てたそうです。

 仏教の可否をめぐる物部氏と蘇我氏の争いは、用明天皇(?-586)の後継者をめぐる争いで、廃仏派物部守屋が滅ぼされるまで続きました。この戦いに親仏派蘇我馬子の味方として参戦した聖徳太子は、四天王に戦勝を祈り、戦後、摂津国(大阪)に四天王寺を建立。さらに法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経の解説書を著し、601年には斑鳩宮を造営して文化の向上と仏教の興隆を目指しました。政治の基調に仏教を採用し、十七条憲法の二条に、「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と加えたことはよく知られています。聖徳太子がなみなみならぬ尽力を注いだこともあって、そのころから仏教は次第に国家鎮護の精神的支柱となり、国の主権者たる天皇家自ら寺を建てるほど重んじられようになっていきました。天武天皇(631-686)は大安寺を、持統天皇(686-697)は薬師寺を、そして、天皇家による仏教寺院建立のピークと思われる聖武天皇(701-756)は、国分寺や国分尼寺を、さらに大和の国分寺である東大寺に大仏を建造をしましたが、そのような仏教信仰が高じて出家してしまいます。710年に元明天皇が奈良の平城京に都を移して、この頃は奈良時代(710-794)という時代区分になっていますが、仏教はそのころ、日本社会に定着したと言っていいかと思われます。

 ところどころに年代を挿入しましたので、伝来(538?)から約1-2世紀をかけ、外来の仏教が日本に根付いていったことがお分かりでしょう。もっとも、民間レベルのことは分かりませんが……。


b. 初期の仏教-1

 聖武天皇が退位し出家した頃(奈良時代)、仏教優位論とでもいうべき本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が起こりました。これは、仏・菩薩が人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現われる(権現)という教説ですが、もともと大乗仏教には、仏が現実の世界に姿形をとって現われるという思想がありましたし、朝廷は、高度な外来文化としての仏教を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出し、土着の信仰を宥和しようとしたものと考えられています。もっとも、神仏習合の思想としての本地垂迹説が一般に広まったのは、平安時代も中期以降のようです。室町時代に吉田神道の創設者・吉田兼倶が唱えた「仏や菩薩は日本の神々が姿を変えたものである」という新説は、神本仏迹説(逆本地垂迹説)として知られますが、そんな異説が出るほど、仏教の力が他を圧倒していたということなのでしょう。

 しかし、仏教が盛んになってきますと、戒律を無視する者が増えるなど、出家者の質が低下してきます。そのことを憂慮した朝廷は、中国から名僧として声望高い、鑑真を招きました。招かれた鑑真は5回もの渡航に失敗し、ついに通風のため失明してしまいますが、なおも渡来を諦めず、11年目にようやく日本に来たそうです(奈良時代753年)。彼は日本に骨を埋めることになりますが、その熱意が伝わってくるようです。彼は唐ですでに一流の高僧であり、仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化に大きな影響を与えました。


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