福音と宗教

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V 民族宗教

4、儒教

 儒教は、仏教より先に古代中国で栄え、日本や韓国を含む東アジア諸国に大きな影響を与えた、重要な文化思想です。江戸時代の武士道に色濃く現れている、礼節を重んじる日本人気質は、仁義礼智信を中心思想とする、儒教の影響と言えましょう。しかしこれは、宗教というよりむしろ、思想体系、政治体系を目指したもののようです。

 儒教は、春秋時代(BC770~BC403)末期に、魯の孔子(BC551~BC479)によって体系化され、彼と弟子たちは、周(東周、BC1044~BC771)の治世を理想とし、臣下となって国を治めつつ、理想を再現しようと試みましたが、その政治的野望は実現には至らず、彼らは生活の糧を葬儀業に頼っていたと言われます。ところが、前漢時代(BC202~AD8)に、武帝が董仲舒(BC176?~BC104?)の建言を入れて儒教を国教に定め(BC136)、官吏登用試験の必須科目としたことから、儒教は全盛期を迎えました。以降、中国は、二千年にわたり、儒教を中心とした官吏国家という特徴をもつことになります。儒教に基づく官吏任用制度(特に隋以降の「科挙」)が中国社会に与えた影響は、士大夫という、文化の担い手としての重要な階級を生み出したのですが、反面、この制度に反発した人、制度から落ちこぼれた人たちを中心とした、隠者的文化・思想潮流を生み出したとも言えるでしょう。その潮流は、一つの大きな文化に育っていきました。やがてその潮流は日本にも入って来て、日本文化の主要なひとつとなり、芭蕉や吉田兼好など、その代表格と目されています。

 儒教は、安定した社会の組織維持・管理に力を発揮しましたが、飢饉や戦乱時などの混乱社会には、適切かつ十分な対処が出来ませんでした。漢の滅亡後、儒教が形式化し停滞していったのは、そんなもともとの体質によるのでしょう。ところが、北宋時代(960~1127)に、女真族の侵略に対する政治意識の高まりや仏教哲学への対抗上、新しく宋学(新儒教)という形で、再び活性化しました。これには、道教(中国古来の原始宗教)や仏教の教義を取り入れたようです。南宋(1127~1278)の朱子は、宋学を朱子学にまとめ、同時代の陸象山や明の王陽明は、陽明学を興しています。朱子学は南宋の政治抗争のなか、一時「偽学」として迫害されますが、元代(1279~1367)に入ると科挙のテキストに採用され、官学として認められました。しかし、明(1368~1643)末にその勢いも衰え、朱子学は歴史学とほとんど区別のつかないものになり、陽明学は仏教・道教と融合する方向へと進み、ほぼ二千年に及んだ儒教の影響力は弱まって、清(1644~1911)の滅亡とともに、政治・宗教思想としての儒教は姿を消してしまいました。以後、宗教思想、学問形態ということではなく、「仁義礼智信」のように、人々の生活に密着した教えとして、民衆の中に根づいてきたと言えましょう。そのような意味での儒教は、日本を含む近隣諸国、とりわけ韓国に定着し、現代人の血の中に脈々と受け継がれ、息づいていると言っていいでしょう。

 ほんの少し、その中味に触れてみましょう。
 弟子の編集による孔子の言行録「論語」に、「子曰く、学びて時にこれを習う、また、よろこばしからずや」とあります。孔子は、教育家として秀でていたのでしょう。門下からたくさんの優れた弟子たちを輩出し、儒家思想は、それら弟子たちによって大成されました。師弟という関係ばかりでなく、親子、労使、先輩後輩など、人間社会における上下関係が濃密なのは、儒教が人間中心の思想だからでしょう。「長幼の順」を、「孝を尊ぶべし」という、儒教で最も高いとされる徳に裏打ちされた儀礼として捕らえ、徳の中で最も重要なものが仁であり、その具体化が礼なのでしょう。もともと礼は、宗教儀礼でのタブー、伝統的習慣・制度を意味していましたが、のちに、人間の上下関係において守るべきこと、を意味するようになりました。儒教が、儀礼に終始していることがうかがわれます。孔子は、実力主義が横行し、身分制秩序が解体されつつあった周末に、周初への復古を理想とし、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げたのです。しかし、礼による社会秩序の回復・維持を説くことから、極めて保守的・権威主義的傾向をもっていると言えましょう。ピューリタニズムのモラルと似通うものが感じられるではありませんか。余談ですが、仁には女性形があります。佞(ねい)ですが、これは「へつらう」「おもねる」など非常に暗いイメージで、儒教の裏側を覗く思いがします。


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