福音と宗教

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V 民族宗教

3、中国仏教(3)

b. 形態


 これまで、極めて大雑把にですが、中国仏教の歴史をみてきました。そこからもお分かりいただけたかと思いますが、中国仏教は、もともとインドで発生した仏教とは、かなり違ったものになっているようです。今回はその違いも含め、中国仏教の形態を見てみたいと思います。

 インドでは、ヒンズー教の昔から、出家や修行者に食物などを布施する習慣があり、それによって仏教教団は、経済的にも支えられてきました。布施者は社会全体のあらゆる階層に広がっていましたし、その中に、お金持ちの商人も含まれていたからです。しかし、中国文化にそんな習慣はなく、伝来の頃には、そうとうの苦労があったようです。そのころは恐らく、少数の敬虔な仏教信者の純粋な寄付行為に支えられていたのでしょう。ところが、仏教を外来文化として魅力あるものとみた各時代の王朝が仏教保護に傾きますと、国家財政が仏教教団を経済的に支える方向に動きました。皇帝はその威信をかけ、立派な寺院を幾つも建立し、僧侶の生活まで手厚く優遇するといった具合です。石窟寺院など、まさにその典型です。ところが、それが国家財政を逼迫し、無能な僧侶でも食うに困らないところから、僧侶の質の低下や堕落が目立つようになります。これが、何回も繰り返された廃仏の、大きな要因となりました。初期のころはともかく、中国仏教は、総じて国家権力の保護と反発の中を歩み続け、その国の盛衰とともに、浮沈を繰り返したと言えましょう。

 中国には、まず原始仏教と初期大乗仏教が一度に伝わり、次に中期大乗仏教、遅れて密教が伝わってきました。そこには、長い歴史に培われた道教や儒教などの文化風土もあって、4世紀ころまでは、老荘の用語を用いて漢訳した仏典を中心に、仏教を道教や儒教の中に紛れ込ませる格義仏教として栄え、伝えられたインド仏教を取捨選択した偽経(400もある中国撰述経典)を含む、漢訳仏典が中国仏教を支えることとなりました。そして、漢訳仏典の経典研究と教相解釈という体系付けが行われるようになり、多くの学派が生まれ、中国独自の宗派が生まれていきます。いづれも、古来の中国思想を重んじるところから、衆生のみならず草木までも成仏できるといった本覚思想を特徴とする、中国仏教が展開されたと言っていいでしょう。仏教に限らず、宗教全般に言えることでしょうが、長い時代を経るにつれ、仏教が仏教でなくなる歴史を重ねていったようです。まして、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクマラカン砂漠など、地理的に区切られ、距離的にも文化的にも遠い中国にもたらされた仏教は、その教義や形態に変遷があっても自然なことだったのでしょう。もしかしたら、長い歴史の中で多くの文化を育んで来た中国には、それら文化形成自体にも取捨選択があり、彼らの意に添うものだけが残ったということなのかも知れません。その経緯は日本でも再現されました。仏教だけでなく、すべての方面に渡って……。

 中国文化になったからでしょうか。仏教は中国人の精神生活に大きな影響を与えました。ゾロアスター教(松教)、キリスト教(景教)、マニ教(摩尼教)なども流入してきましたが、それらとは比較にならないほど、仏教の存在感は大きいようです。

 隋朝のころ、宗派が誕生しました。一部を簡単に見てみましょう。一切皆成仏という理想と平等を主張し、学問仏教として中国仏教を代表する二大教学に、法華経を最上の教えと信じる天台宗と、華厳経を重んじる華厳宗があります。また、密教(神秘主義仏教)経典と言われる金剛経や、大日経を取り入れて真言宗が誕生。以後、中国仏教では、密教が盛んになっていきました。しかし、玄奘三蔵の弟子たちは理想主義の学問仏教を批判、汚れを滅却していく瞑想行を重んじ、現実・実践主義の法相宗を興しました。三蔵法師はインドに旅し、多くの経典を持ち帰った人物として知られています。

 朝廷の庇護を受けて唐代に栄えた仏教諸派は、度重なる廃仏によって急激に衰退していきます。しかし、朝廷保護の埒外にいた浄土教と禅宗は、独立宗派とはなりませんでしたが、民衆の宗教として現代にまで生き延びました。阿弥陀浄土を信じ、小難しい理屈には見向きもせず、ひたすら念仏を唱えながら阿弥陀仏を礼拝する浄土教と、520年頃に達摩大師によって伝えられ、経典を用いず、ひたすら座禅することで本来の淨らかな自己の本性を覚醒しようとする、食事作法や作務など、生活全般に重きを置くことで知られる禅宗と、この二つの宗派は、そうした単純明快な姿勢が民衆に支持され、中国が生んだ最も中国的な仏教と評価されています。中国で変遷を重ねたこうした仏教諸派が、留学僧などによって日本に持ち込まれ、その諸宗派は、日本で更なる変遷を遂げていきます。


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