福音と宗教

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V 民族宗教

2、ヒンズー教

 ヒンズー教は、インド最大の宗教で、仏教の原点であり、あの有名なカースト制度を生み出したと、その程度の知識しかなかったのですが、何と言っても人口6億人のインドを支える宗教であり、世界最大の民族宗教と言っていいでしょう。あまりにも膨大すぎて、その実体を把握するのは専門家でもむつかしいとされていますので、できるだけ簡単に触れていくことにします。ヒンズー教に触れるのはこの一回だけですので、少し長めになりますがご容赦ください。

a. インド人の宗教

 ヒンズーとはペルシャ語でインド人を意味します。ですからヒンズー教は、インド人の宗教ということですが、それはイスラムが入って来た13世紀以降に呼び名として定着したようです。それまでは、ことさら呼び名が必要ではありませんでした。そこには、開祖がおらず、組織も共通の統一教典もありません。神々は無数と言っていいほどで、太陽や雷などの自然現象、蛇や牡牛、猿などの動物、年月を経た樹木なども神々の中に加えられ、汎神論の傾向を示しています。そんな神々が村落や部落ごとに祭られていて、この宗教がインド人の生活の中から自然発生したものであることが窺われます。これは、ヒンズー教徒の子として生まれた人だけが信徒という、インド特有の宗教なのです。

 そのように聞きますと、現代のヒンズー教が、いかにも原始宗教の延長上にあるかのような印象を受けますが、しかし実際には、世界中の民族が持つ精霊信仰と同じく、インド人の生活を、その貧しさまでも匂わせる泥臭いものでありながら、同時に、極めて抽象的形而上学的な教義をひねくり回す部分も併存していて、ヒンズー教がいかに幅の広いものであるかを物語っています。

 インドに誕生した仏教は、消長を繰り返した後、13世紀にインドから消滅してしまいましたが、よく観察しますと、消滅したのではなく、ヒンズー教に吸収されてしまったことが窺えます。それはカトリックやイスラムなどいくつかの例外を除いて、インド宗教の全般に見られるようです。ヒンズー教は、インド一帯に広がっていく歴史の中で、各地方に居住していた異なった信仰をもつさまざまな人々を、その宗教とともに吸収していったのです。幅の広さは、そんな歴史を通ってきたからではないでしょうか。日本仏教も、同じような根っこを引き継いでいるようです。


b. カースト制度の中で

 インドでもっとも良く知られているのは、カースト制度ではないかと思われます。
 これはヒンズー教から生まれたインド特有の階層制度ですが、よく知られているバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つだけではなく、一つの村だけでも10~30ほど、一つの言語地域では、数百というカーストが見られるそうです。もちろん、他地域と重なるものや、インド社会全体に共通のものもありますが、地域特有のカーストもあって、全体では数え切れないほど多くのカーストが存在していると言っていいでしょう。カーストと聞きますと、すぐに階級差別を思い浮かべますが、その意味では普通3層の階層秩序があるくらいで、ほどんどのカーストに上下の区別はないようです。ただ、カースト最大の特徴として、一つのカーストは他とは厳然と区別され、他のカースト成員と結婚することはできず、その構成員は世襲制で、生まれたときから死ぬまで変わることはありません。もっとも、近年、かなり様子が変わってきたようですが……。

 3層の階層秩序に触れておきましょう。上層はヒンズー教の僧階級バラモンで、村の土地を多く所有し、農業や軍事を伝統的職業とし、その一握りの人たちが、村の政治と経済を支配してきました。中層は商人や陶工、大工、鍛冶工、理髪師といった職人カーストで、下層は皮製品を作ったり、掃除や見張りなどの雑役に従事してきた、ハリジャンと呼ばれるカーストです。この最下層ハリジャン・カーストは、インド総人口の15%を占める6500万人にのぼりますが、上級カーストが自分たちの特権を保持するために、彼らを不可触賎民として、さまざまな社会的制約を定めてきました。たとえば、居住地区が定められ、上層カースト者が詣でる寺院には出入りできず、その井戸も使えない。川での洗濯や水浴も、下手で行わなければならない。更に、見るだけで汚れるとして、昼間、人目につくところに出てくることを禁止したこともあったようです。なぜハリジャンがそのカーストに甘んじていたかと言いますと、彼らはヒンズー教の根本的輪廻転生の教えを信じていたからと思われます。

 輪廻転生は元来無神論的であって、神々の入る余地はなく、人々が貧困や苦悩のために祈り頼る宗教生活は存在していないと言っていいでしょう。彼らは今度生まれる時にはもっと上位のカーストにと、ひたすら善行を積むことに励みます。そうやって王のカーストに解脱していく。それがヒンズー教でいう〈救い〉なのです。彼らが托鉢僧に布施を差し出すのも、そのための善行に他なりません。だいたい托鉢僧は、ハリジャン出身者が多いのです。出家は極めて重要な善行であり、彼らへの布施行為は、修行への一般参加なのでしょうか。しかし恐らく、その死と生とを永遠に繰り返しても、希望するカーストに到達することはありません。


c. 神々への信仰が

 しかし実際には、各地に多くの寺院があり、家々では神々への祭祀が行われ、神々への畏敬を込めて繰り広げられる聖地への巡礼……と、まるでヒンズー教には、全く異なる諸宗教が同居しているかのようです。ヒンズー教は、そのような異質な信仰混合の上に成立してきたのでしょう。

 神々への祭祀が成立した理由は、女神に見ることが出来るようです。多くの女神はその豊満な乳房を強調していますが、それが豊穣の神々だからなのでしょう。つまり、神々への信仰は、現世利益を求めてなのです。どこそこの神はご利益があるとなれば、付近の村々にその神の祭祀が広がっていく。まるで、「貧しさや苦悩のために祈り頼る宗教生活はない」どころか、他の宗教にまさって、病気平癒や豊年満作を祈る、神々への信仰が際限なく広がっているようです。一方に永遠に繰り返される生と死のせめぎ合いがあり、そこに深化されていくヒンズー哲学ですが、その一方に、原始的汎神論から生まれたご利益信仰が……と、ヒンズー教に正統異端の概念はありません。何もかも包み込んでしまう包容力は、そんなところから生まれてきたのでしょう。仏教がその多くの伝統を引き継ぎました。


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