福音と宗教

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V 民族宗教

1、ユダヤ教(4)

c. 放浪の民として−2

 エルサレム陥落後、瓦礫の中から立ち上がったのは、パリサイ派の人たちでした。彼らは、頑固な律法主義者として知られていますが、意外と事態を把握し、対処していく知恵を身に着けていたのでしょう。そんな知恵を彼らは、律法研究の中から学んでいたのかも知れません。

 その中に、ヨハナン・ベン・ザカイというラビ(教師)がいます。彼は、エルサレム籠城中に、このままでは民族が滅亡すると憂え、深夜、棺桶に身を隠して城を脱出し、ローマ軍陣中に行きました。そして、訴えたのです。ユダヤ人にローマとの協調を説くから、その代わり、学校を建て、宗教教育を行うことを許して欲しいと。ローマ人は、自分たちに従いさえすれば、宗教などどうでもいいと考える人たちでしたから、その願いを許し、ザカイはヤフネに学校を作りました。戦乱後のユダヤ人は貧窮のどん底にありましたが、そうした惨状の中で、遠くメソポタミアなど、世界中の散らされたところから、ヤフネまで留学してきたと言われます。ザカイの建てた学校は、ユダヤ教の灯を守り通したのです。彼はまた、一時期ですが、ガリラヤにユダヤ人自治区を作ることを、ローマに承認させたようです。

 シナゴグは、イエスさま当時、すでにユダヤ人子弟の教育の場となっていましたが、きっとザカイなどラビたちは、そんな伝統を残すことで、後世のユダヤ人たちが神さまの選びの民として生き延びていける、と期待したのでしょう。今も世界の一級知識人に、ユダヤ人が多いことも頷けます。

ユダヤとローマ最後の戦いは、ラビ・アキバがシモン・バル・コフバをメシヤに担ぎ上げて兵を動員した、AD132年の反抗でした。彼らは一時エルサレムを占領しますが、すぐに奪還され、今度は残っていた建物も徹底的に破壊されて、ユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止されます。この時から、この地は「カナン」からシリア・パレスティネンシスと改名され、「パレスチナ」と呼ばれるようになりました。そして、この戦闘にユダヤ人キリスト教徒が加わらなかったことから、彼らのエルサレム立ち入りは例外とされ、ユダヤ教徒とキリスト教徒の身分が分けられるようになりました。

 キリスト教がローマ国教になったのはAD325年ですが、その直後から、権力者となったキリスト教による、ユダヤ人迫害が始まります。まず、キリスト教徒がユダヤ教に改宗することは禁止され、違反者は死刑と定められました。そして439年、シナゴグの新しい建設と布教活動禁止令が出され、違反者は死刑。さらに、ユダヤ人がキリスト教徒と同じ家に住むこと、また、キリスト教徒の奴隷を使うことも禁止、違反者は死刑……、次々とユダヤ人は追い詰められていきました。

 ユダヤ教は邪悪な宗派であり、悪魔の手先だから、追放、絶滅しなければならないと、つい近世まで、欧州のキリスト教各国は異端審問所を設けてユダヤ人を追放。そして、ごく些細な理由から、多くのユダヤ人のいのちを奪ってきました。およそ1700年にも及ぶ、ヨーロッパ(主に)におけるユダヤ人迫害の大部分は、キリスト教徒の手によって行われたと言っていいでしょう。

 その迫害の第一の原因は、彼らをイエスさまを十字架につけた者たちとしている点です。イエスさま当時の一部のユダヤ人に限って言うなら、それはその通りですが、時代を経たユダヤ人全員にその責任を問い続けるのは、まことに奇妙なことでしょう。まして、その信仰を聖書に学ぶ人たちは、イエスさまを十字架につけたのは、罪を犯したすべての者であって、そこにはユダヤ人とか日本人といった区別はないと理解して来たのです。にもかかわらず、キリスト教徒がユダヤ人迫害者になっていきました。その理由の一つに、ユダヤ人はローマとの確執から国を失いましたが、その後なお、反抗し続けたことが上げられるでしょう。ローマ人はおおむね寛容な民族ですが、逆らう者からは徹底して反抗の芽を摘み取ってきました。そして、テオドシウス帝のキリスト教・国教制定(AD391)以降、ローマ人=キリスト教徒なのです。それまで迫害される側だったキリスト教徒たちは、権力と結びついたとたん、反動として、それまでの帳尻合わせに走ってしまったのでは、と想像するのです……。ユダヤ人にとっても、自分たちの分派でありながら、権力者の側に立ったキリスト教を、苦々しく思っていたのではないでしょうか。そんなユダヤ人の反感にキリスト教徒側が反応し、両者に葛藤が生じていったと見る人たちも少なくありません。


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