福音と宗教

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V 民族宗教

1、ユダヤ教(3)

c、放浪の民として−1

 ユダヤ人と言えば、国を失って世界中に散らされ、それらの国々に寄留しながら、2000年にも及ぶ、放浪を生き抜いて来た民族として知られます。彼らの放浪の歴史、その概観を辿ってみましょう。

 AD6年に、ユダヤ人の中に、ユダヤを直轄支配地にしたローマへの反感が広がり、何回もの小反乱が起こります。そして60年代、過激派・熱心党を中心に、多くのユダヤ人が武装蜂起し、大反乱時代へ向かいました。AD68年、ついにユダヤとローマはユダヤ戦争に突入し、時の皇帝ネロは大軍を派遣します。しかし、彼はその年に暗殺され、代わって次期皇帝となる司令官ヴェスパシアヌスがエルサレムを完全制圧(紀元70年)し、エルサレムは「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊されました。この戦争のユダヤ人犠牲者は、60万人を超えたと言われています。その後、約千人のユダヤ人が死海東側の自然要塞マサダに籠城し、ゲリラ戦を展開しますが、ローマは8千の軍隊をもって総攻撃。2人の老婆と5人の子供を残し、全員玉砕しました。この事件は、ユダヤ最大の悲劇として、今に語り伝えられています。そしてAD132年、バル・コフバの反乱が起こりました。最後のユダヤ戦争です。敗北した彼らは国を失い、世界中に離散していきます。それが、2千年にも及ぶ放浪と苦難の始まりでした。つい近年まで、いくつもの国が反ユダヤ主義を掲げて、ユダヤ人迫害者になっていったのです。アウシュビッツでのユダヤ人虐殺など、その典型的な例でしょう。

 ローマとの戦いに敗れ、離散と放浪の民(ディアスポラ)となったユダヤ人は、迫害と苦難の中を生き抜いていく道をユダヤ教に求め、唯一の神さまを信じるユダヤ教徒として生きる、必死の模索を続けました。ところが彼らは国を失い、エルサレム神殿での祭儀を行うことが出来ません。その危機を乗り越えることができたのは、律法学者たちによる、律法研究から生まれた信仰姿勢によると思われます。彼らは、神さまの意志・律法を正しく日常生活のなかで実践することこそ、神さまの前に立ち得る正しい姿としました。これ以後、ユダヤ教は、「律法」と、律法から引き出された生活規範としてのミツヴァ(掟)が中心となっていきます。そして、その傾向がミシュナ(口伝だった日常生活の規範を、ユダヤ教規範集としてAD2世紀頃にまとめたもの)やタルムードを重視する方向へと傾きはじめ、トーラ(律法)の他に、ミシュナとタルムードをユダヤ教正典に加える動きになっていきました。タルムードは、律法を日常生活の用語で解説した、ラビたちの知恵集といったらいいでしょうか。20巻12000ページにも及ぶ膨大なもので、BC500年〜AD500年の1千年間に語られた、ラビたちの口伝を編集したものです。どこか、イスラムのハディスに似ているではありませんか。

 律法研究とその実践が神殿祭儀に代わることによって、神殿喪失の危機を乗り越えたユダヤ教は、結果、律法主義宗教に変質していきました。律法の厳格な遵守は、中世〜近代を通じ、一貫したユダヤ教の基本姿勢と言えるでしょう。律法の徹底的遵守、これが、国を失い神殿を失い、世界中に放浪の民として散らされた、ユダヤ人たちの生きていく力となりました。詩篇に「私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないでください」(119:8)とある、彼らの信仰が伝わって来るようです。

 ところが、いつの間にかそれは、文字に縛られた、血の通わない、律法主義に陥っていきます。その傾向に拍車をかけた一つが、シナゴグ(ユダヤ人会堂)を中心とするユダヤ社会ではなかったかと思われます。もちろん、バビロン捕囚期に始まった初期には、シナゴグに権力者などおらず、上記詩篇に見られるように、預言たちがそれぞれの群れをリードしていたと思われます。ところが、パレスチナ帰還後、シナゴグ構成員の出入りを管理する、指導者階級が次第に君臨するようになりました。古くはパリサイ人やラビ、近世には正統派、改革派、保守派がそれぞれのシナゴグを管理し、それらの諸派がそれぞれの規則を作り、構成員を管理していったのでしょう。そして、その規則が、厳格な律法主義につながっていきました。規則は非常に細かく、それを守ることは極めてむつかしかったと想像されます。しかし、だからこそ、厳しい律法主義は、シナゴグという一つ社会で共有する、価値あるものに育っていったのではないでしょうか。神さまの言いつけに背いたことがイスラエル崩壊を招いたと、彼らは忘れていなかったのです。


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