福音と宗教

37


U 世界的宗教

3、キリスト教(7)

d. 救済の宗教


 キリスト教は救済の宗教であると言いますと、いろいろな人たちからの、宗教とはおしなべて、貧しさ、病、恐れ、悩み、苦しみなど、人の持つ弱さからの救済を目的としているのではないか、という声が聞こえてくるようです。確かにその通りなのですが、「救い」とは、そんな日常的苦しみからの脱却だけに留まりません。キリスト教はその「救い」を、もっと根本的な、人間そのものに関わる「救い」でなければならない、と考えました。その概観を略述していきましょう。

 救済論をキリスト教は、創造論や贖罪論などいくつもの主題を内包する、総合的キリスト教学体系であると理解しています。その各主題は、人を創造した神が人にどう関わったのか、どう関わろうとしているのかを、聖書に基づいて探りつつ提示してきました。「神学」と言われる所以です。

 救済論は、そんな各論が苦闘して築き上げて来た、「神学」の中心部なのです。
 第一主題の創造論から始まる救済論の概略は、次の通りです。神に造られた人(アダム)は、エデンの園(パラダイス)で神とともにある幸いを享受していました。ところが、サタンにそそのかされて、「食べてはいけない」と言われていた禁断の実を食べてしまうのです。それは神への反抗であり、「罪」であるとして、人はエデンの園を追放されてしまいました。救済論第二の主題は、「罪」の問題です。これは神を否定する主張であり、その関係を破壊するものでした。以来、罪を取り込んだ人は、創造主との平和を失い、死の恐怖をも取り込んでしまったのです。その修復に、律法遵守や修行、哲学、宗教など、人間サイドのあらゆる努力が費やされましたが効果なく、ただ、神の独り子イエス・キリストが十字架にかかって人の罪の身代わりとして死ぬという、贖罪によってのみ可能となります。キリストの贖罪を信じ受け入れて、破壊された神との関係が修復され(認定するのは神)、神と和解をした者が神の国に招かれる。これがキリスト教第三の主題で、最も中心的な救済観です。それは「キリスト論」「和解論」「贖罪論」などに展開されますが、キリスト教救済論のクライマックスと言っていいでしょう。

 そして、救済論第四の主題は、信仰です。それは、キリストの贖罪に対する人の側からの感謝と賛美の応答、或いは、罪の悔い改めとイエス・キリストに対する「わが主、わが神よ」という告白であると言っていいでしょう。救ってくださる方への帰依がもっとも大切なのです。


e. イエス・キリスト

 さて、キリスト教として長い歴史を歩んで来たこの宗教は、イエス・キリストを救い主と信じた者たちの、信仰告白体系であると言っていいのかも知れません。しかし、その体系は、時代や地域、教団や教派の神学により異なっていて、必ずしも一律というわけではなく、かなり幅のある体系と言っていいでしょう。たとえば、キリストが行なったさまざまな奇跡に対しては、肯定と否定が全時代を通して教会の中で交錯していますし、キリスト教の中心部分をなすイエス・キリストの「十字架」と「よみがえり」も、たびたび歪曲、或いは否定されて来ました。「キリストは死ななかった」「よみがえりは信仰者の意識の中に起こったもの」「……」と。もちろん、単純に奇跡や十字架やよみがえりを肯定する人たちがほとんどなのですが……。そして、「キリストは神であるか」というより深い問題になりますと、古くから現代に至るまで何度も繰り返し、「神に似た者」であり、「人そのもの」ではなかったかという問題提起がされて来たことも、付け加えておかなければなりません。

 キリスト教はそういった多様なキリスト観を擁する宗教ですが、プロテスタント教会に限定しますと、古くから、「使徒信条」と呼ばれ、多くの教会で用いられてきた信仰告白文が、平均的なイエス・キリスト像を提供しているのではと思われます。その全文をご紹介し、「キリスト教」の項を閉じましょう。

 「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン」(讃美歌21現代文より)


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