福音と宗教

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U 世界的宗教

2 イスラム(10)

i. イスラムの近代化とその反動

 イスラム世界の近代化は、おおむね3つの型に集約されているようです。
 第一の型は、政教分離という西欧的近代化を推進したトルコに代表されます。トルコは、イスラムとしての象徴的な諸制度を、廃止や国家統制という方向で少しづつ縮小していきました。カリフ制度の廃止、イスラム神学校や聖堂やイスラム指導者を政府の管理下におき、シャーリア(イスラム法)やこれに基づく裁判所の活動を停止、次いで一夫多妻制も公式に禁止、儀式以外に聖職者が特殊な服装を用いることを禁じ、トルコムスリムのシンボルだったトルコ帽を廃止、ラマダンの断食を個人の自由意志にゆだね、公教育体系の中でのイスラム教育を廃止、女性の諸権利を認め、更にイスラム暦を廃止して太陽暦の採用……といった具合です。ただ、それは政府の西欧向け姿勢でしたから、一般民衆レベルでのイスラム社会の風習は、ほとんどがそのまま残ってはいましたが。

 第二の型は、オランダの植民地から独立したインドネシアに見ることができます。オランダは、「東インド会社員」と名付けた植民地支配の官吏を送り込み、それが最上位、次いでキリスト教徒の西欧人やその他の国の人たち、次に中国人というように階級制を敷きました。インドネシア人は最下位でしたが、同じ最下位ながらキリスト教徒は他の宗教の信徒よりも上位にランクされ、これがインドネシア社会に大きな亀裂を生じさせました。そんな葛藤を経て、1949年ついに勝ち取った独立は、西欧支配脱却への闘争がイスラム近代国家の誕生になっていった好例と言えるでしょう。

第三の型は、西欧化や闘争によるイスラム覚醒とは一線を画しながら近代化を目指す、イスラム共和国パキスタンのケースです。パキスタンは、憲法に「社会正義に関するイスラムの原理を基礎とする民主国家」と明記された神政国家で、国家主権はアッラーに委託されたものであるとし、国家のすべての原理をイスラムのうちに求めようとしています。しかし、原理主義を採るイランほど狂信的ではありません。それなりの近代国家像が意図されていると感じます。たとえばザカート(慈善)ですが、これは古くからイスラム世界で、貧民、困窮者、病人など弱者への救済として所得税なみに徴収されていました。パキスタンはこれを行政の重要な一環として取り入れ、その資金で財団を設立、国民の厚生施設や福利施設などを作っています。福祉を骨格にしたイスラム近代国家を目指しているのでしょうか。

 そんなイスラム世界の近代化で、最も著しい西欧化のケースをもう少し見てみましょう。そこには西欧諸国の植民地政策が深く関与しています。彼らは圧倒的な近代的武力を背景に、宣教師を送り込んで教会を建て、キリスト教への改宗を勧めるだけでなく、改宗者には官吏や諸方面の指導者になる道を開き、その反面、ムスリムに対して強い宗教弾圧を行なったそうです。そのようにして推進された近代化は、皮肉なことにイスラムを、ムハンマドを生み出したイスラムの原点とでもいうべき、アラビア的なところから遠ざける方向への歩みでもありました。アッラーはもはやアラビア的な荒々しい裁きの神ではなく、西欧からやって来たキリスト教的な愛の神にまで変質していったようです。

 こうした時代に反発するかのように、復古運動が起こるのは自然な成り行きでしょう。
 18世紀中頃、アブダラ・ワッハーブが、偶像崇拝ではないのかとスーフィの聖者崇拝に抗議、やがて、スーフィを許容したイスラム神学全般をも攻撃し始めますが、ワッハーブ派と呼ばれる彼の同調者たちはアラビア的イスラムの復古運動を展開していきます。彼らは、コーランとハディスだけが聖典であるとして、数世紀に渡ってつくり出されてきた一切のイスラム神学を否定。その、まるで清教徒のように質素な生活をしながらコーランの戒律を厳しく守ろうとするあり方は、多くのムスリムの心を惹きつけ、アラビアの強力な一部族イブン・サゥードが武力をもって彼らを応援するようになりました。後の(20世紀)サゥーディ・アラビアです。彼らはシーア派の聖地カルバラを占領、聖者崇拝のシンボルだったホセインの墓や聖堂などを破壊、更にはメッカやメジナにまで侵入し、ムハンマド廟までも破壊してしまいます。都市を牧草地に変えてしまうのは、まさにアラビア遊牧民の論理と言っていいでしょう。彼らは、オスマン・トルコによって鎮圧されるまでの9年間、そんな行動を取り続けました。武力による他者への抵抗という復古運動は、現代テロの原点なのかも知れませんね。 


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