福音と宗教

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U 世界的宗教

2 イスラム(9)

h. イスラム圏の広がり(2)

 イスラムの海外進出は、そのほとんどが軍事(聖戦)を伴うもので、侵入後、政治や社会組織全体にわたる変革を経てイスラム化するというのが、特に宗教協同体を目指す正統スンニ派の常套手段でした。しかし、もう一つのパターンがあります。最大のムスリム人口を抱えるインドネシアのケースです。インドネシアは、8世紀ころ盛んに交流していた、アラビアやペルシャの商人を通して平和のうちにイスラム化していきました。それは、インドネシアのヒンズー文化を大幅に残したまま、シンクレティズムとしてのイスラム化でした。恐らく、インドの影響下にあったインドネシア社会でしたから、イスラム文化受容という面でも、インドの辿ったヒンズー教との融合という道を一層大幅に踏襲したのでしょう。ヒンズー教の宗教的寛容性がイスラムを受け入れ、変化していったということなのかも知れません。それは、インドの大乗仏教がヒンズー教に吸収された歴史にも見られるものです。そうしたインドネシアの民族的傾向は、イスラム固有な組織への編入、或いはイスラム宗教協同体への参加という道を妨げました。それは17世紀以降アラビアとの直接交流が始まり、スンニ派的正統信仰の体系が移植されるまで続いたようです。そして、インド、インドネシアに続き、マラッカやフィリピンなど、東南アジア各地にイスラムが進出していきます。しかし、一時期のその隆盛は、たとえばマラッカは小メッカと言われるほどでしたが、やがてヨーロッパの植民地政策の波が押し寄せ、スペイン、ポルトガルなどのカトリックがこれに代わってしまいました。

 イスラムの広がりには、エジプトを中心とするもう一つの大きな地域を上げなくてはなりません。イベリア半島とアフリカです。 エジプトはすでに11世紀の中頃、シーア派ファティマ朝の勢力拡大に伴ってイスラムとの接触があったようですが、そのファティマ朝を滅ぼしたクルド人のサラディンがそこにスンニ派のアイユーブ朝を興し、そのアイユーブ朝を倒したマムルーク朝が地中海・インド洋貿易を推進し、首都カイロに美しいモスクや学院を建てて、アフリカ・イスラムの中心として繁栄しました。また、7世紀、ウマイヤ朝に征服されてイスラム化したモロッコを中心に、北アフリカからイベリア半島や内陸アフリカへとイスラム圏が拡大しました。これらは軍事的進出と商人たちの貿易による平和的進出が巧みに組み合わされていますが、十字軍時代のことでもあって、キリスト教の反撃に遭い、イスラム化の後あえなく撤退といったケースも目立つようです。イベリア半島のグラナダに残る美しいアルハンブラ宮殿は、その好例と言えるでしょう。

 更にこの広がりで、シルクロードを通って中国西部にもイスラムが入っていったことを忘れてはなりません。パキスタンやアフガニスタンと中国西部、更にモンゴルなどのイスラム化は、もともと中央アジアで勢力を広げたトルコに端を発しているのですが、トルコがオスマン・トルコとして小アジアに移った後には、アラビアとの貿易交流によるところも大きかったのではと思われます。中央アジアにスンニ派が多いのは、トルコ・イスラムの影響によります。現代のトルコ共和国のアジア地域は、10世紀までキリスト教東方教会の世界でした。それが、11世紀にセルジュク朝のトルコ人が移住して来て、トルコ化と同時にイスラム化していったようです。やがてセルジュク朝が衰えると、いくつもの群立していた小君主国からオスマン・トルコが誕生し、オスマン・トルコは更に勢力を伸ばしてローマ帝国の首都コンスタンチノープルに侵入してこれを陥落、その地をイスタンブールと呼んでオスマン帝国を確立しました。それは地中海の東半分を領有し、西欧諸国のキリスト教と反目しあうようになります。

 アラビアに始まったイスラム圏の広がりを大雑把に見てきましたが、一つはインドを筆頭とする軍事力によるイスラム進出、もう一つはイスラム商人によるインドネシアを中心とする東南アジアへの進出、そしてもう一つは、その二つを組み合わせたもので、中央アジアの遊牧民トルコ民族によるパキスタンやアフガニスタンから中国西部にかけての西アジアへの進出でした。そして中央アジア北部のモンゴルへの進出、そのイスラム化には、十字軍時代にモンゴル自身が西アジアに進出してイスラムと接触したことも、大きな契機になったと思われます。いづれにせよ、多様性に富んだイスラム圏の広がりは、時間をかけて現代に実を結びつつあると言えるのではないでしょうか。


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