福音と宗教

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U 世界的宗教

2 イスラム(7)

e. カリフ

 イスラム君主カリフとは、ムハンマドの後継者のことですが、その歴史に簡単に触れておきましょう。現代のイスラムがいくらか見えてくるのではと期待します。

 第一代、第二代のカリフ時代はわずか12年でしたが、その間は、カリフを中心にイスラムが一つにまとまった、平和な時代だったようです。ところが、第三代カリフにメッカの名族ウマイヤ家の長老ウスマーンが就任し、あからさまなウマイヤ家中心の政策が展開され始めますと、激しい反発が起こりました。カリフをめぐる争いの始まりです。ウマイヤ家は、ムハンマドがメッカで新しい宗教・イスラムを伝え始めた時、その教えを体制批判であるとして迫害した人たちでした。ところが、メジナに生まれた一派は、カリフはムハンマドの一族でなければならないとウスマーンを暗殺、ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファティマと結婚したアリーを第四代カリフに担ぎ上げました。そのメジナで生まれた新派が、シーア派(分派)と呼ばれるようになります。しかし、早くからシリヤに進出して、その太守になっていたウマイヤ家のムァイアが自らカリフを称するようになり、いつの間にか、アリーを斥け(小派閥による暗殺)、カリフを世襲性と定め、共同体だった筈のイスラムに、君主国家とも言えるムァイヤ朝を成立しました。続いて、バクダードを首都にアッバス朝(AD750~1258)が興りますが、これがイスラム最高の繁栄時代と言われるサラセン帝国です。やがて、カリフの舞台はトルコに移り、トピカプ宮殿で知られるスレイマンは、アッバス朝最後のカリフから相続者としての指名を受け、政治的統治者スルタンと宗教的代表者カリフを兼ねる大権力者になりました。以後、カリフはトルコ皇帝の世襲となり、今世紀まで続きましたが、1924年イスラムを国教とすることを否決した革命トルコにより、カリフは国外に追放されます。

 カリフを正統と認め続けてきた人たちが、現在、全イスラムの90%を占めると言われる多数派・スンニ派です。前回見てきた法学中心の、組織的かつ実践的イスラムとは、このスンニ派のイスラムであると言えるでしょう。


f. シーア派

 第4代カリフ・アリーをもって正統のイマム(イスラム指導者)とするシーア派が、メジナに生まれました。正統派スンニ派は彼らを異端と呼んで迫害し、今でも両者は激しい対立を続けています。

 シーア派の特徴は、イスラム世界の異邦人という意識に彩られているようです。そんなシーア派を象徴するモハラム(イスラム暦の1月)の行事を紹介しましょう。
 暗殺されたアリーには二人の息子がいました。後継者になった長男のハサンは暗殺されます。一族の再起を願う弟ホセインは、わずかな軍を率いて、680年10月10日、ウマイヤ朝第二代カリフ、ヤズイードの大軍とカルバラで戦って全滅します。これが「カルバラの悲劇」と呼ばれ、ホセインの無念を思って身体を傷つけ、悲しみの叫び声を上げながら行列が街中を練り歩く、シーア派最大の年中行事として今も続いています。彼に異邦人シーア派の姿をだぶらせているのでしょう。

 シーア派と言えばイランがその代表格で、12イマム派と呼ばれています。イランのシーア派宗教指導者はカリフではなく、イマムです。彼らは、第4代目カリフ・アリーを初代とし、ムハンマドの娘ファティマの血を受け継ぐ12人だけをイマムに数えます。しかし、12人目のイマムはわずか4〜5才の幼児でしたが、突如その行方が知れなくなり、それはアッラーの意志によるものとされ、ついに彼の再臨すら信じられるようになりました。この再臨派が勢力を拡大し、イランにサファビー朝を成立させ、以後、イランはシーア派を国教とする王国として近年の革命が起こるまで続いたのです。スンニ派がイスラム法を中心に組織としてのイスラム共同体を目指したのに対し、シーア派はムハンマドの血統を重んじ、アリーをアッラーの具現化とまで言うようになりました。特に12イマム派は、そのイマムが途絶えたことから、一層神秘的な神学へと進まざるを得なくなったのでしょう。最後のイマムにいろいろと神的修飾を加え、メシアとしての再臨説まで持ち上がっています。


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