福音と宗教

10


T 失われた宗教

4 マニ教(1)

 マニ教のことは、初期キリスト教界最大の神学者・アウグスティヌスが若い頃夢中になった宗教としか知りませんでしたが、彼ほどの人が夢中になったのですから、きっと魅力ある宗教だったのでしょう。一度はその内容に触れたいと思っていましたが、ようやくその機会がめぐってきました。

 マニ教は、3世紀のペルシャ人マニの説いた教えのことで、彼のカリスマ性とも言える宗教感覚に負っていますが、その弟子たちが懸命に伝道したからでしょうか、世界的な広がりを持った宗教と言われています。もっとも、ローマを中心とした西方でのピークは4世紀頃までであって、デオクレティアヌス帝に始まる歴代皇帝による迫害で急速に衰退していきました。以後、バビロン以東、中央アジア地域にまで移っていき、14世紀頃まで生き延びましたが、やがて消滅してしまいました。ところが、ヨーロッパ思想の底流として現代にも流れている潮流の一つに、グノーシス主義(1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で強大な勢力を持った宗教思想。いづれ取り上げる)がありますが、その体系にこのマニ教が特別に関わっていることが、近年の研究者によって明らかにされてきたのです。そして、このマニ教の思想体系は、キリスト教やユダヤ教、仏教などを包括するものであると指摘されています。その意味では、世界宗教の一つに数えて良いと言う人もいるほどです。

 マニの宗教は、その60年の生涯で3度の「大啓示」を経験したことに始まったと言われています。彼は、幼児期から、父が属していたキリスト教の一派で雑種的洗礼教団と呼ばれる、エルカサイ派の信仰によって育てられました。キリスト教といっても、その頃すでに異端と目される得体の知れない教派が出現していたようです。そんな教団の信仰に疑問を感じていたのでしょうか、最初の「大啓示」以来、彼は教団の宗教改革を志しますが、異端者として教団から追放されています。しかし、それが却って新しい教団を形成する契機になりました。マニ教の誕生です。

 その教義に少し踏み込んでいきましょう。彼の教えは、光=善、闇=悪という自然的二元論であって、光も闇も混在している現実世界からの救済を最終目的に掲げた、救済宗教と言っていいかと思われます。マニはそこで救済者であり、導き手でもあるのですが、信徒たちに無条件で救いを与える恩寵者ではありません。彼らは光の国を目指してひたすら愛、信、誠、敬、智、順、覚、秘、察というマニの定めた十徳や五戒(正直、純潔、無所有など)の精進を心がけ、やがて救いに至るというのです。何となくキリスト教の匂いがするではありませんか。それも、贖罪者を欠いた律法主義的な匂いが……。マニ教がユダヤ・キリスト教を出発点にしているという、その痕跡が見えるような気がします。

 ところで、善悪二元論は人間の肉体と魂を分離して扱うグノーシス主義の特徴ですが、マニ教はそのグノーシス的二元論を基軸に人間の救済神学を打ち立てているようです。

 グノーシスとは、ギリシャ語の「智」を意味しています。その智が魂を救い出すのです。つまり、グノーシス主義と同様に、マニ教にとっても人間の肉体は悪しき物体なのです。その悪に囚われている光を智の力で解放していく。光は人間の持っている魂であり、智は人間の持つ善の部分であって、それが光の神々に呼応し、解放が行われるというのです。よくは分からないのですが、グノーシス主義の内在する魂の光とは別に、救済に力を貸す他者としての神々が一段上の光として登場してくるところは、マニの工夫なのかも知れません。恐らく、ミトラス教やゾロアスター教など、他宗教の影響もあるのでしょう。いづれにしても、善悪二元論という中での内面的(精神と物質との)闘争があって、ついに善が悪をうち破り、そこに救いが完成するという、グノーシス主義の典型的なパターンが見られ、マニ教はグノーシス主義宗教の代表格に数えられています。

 彼らグノーシス主義やマニ教は、人間が肉体という悪の物質に囚われた罪の存在であると考えました。肉体という物質に支配される精神の中で、罪を感じつつ、人間の欲望というものを鋭く見つめていたと言えそうです。世界の諸宗教の中で、罪を問題にしているものはとても少ないと思われますが、確かに、マニ教は、その点で優れた宗教に数えられるのかも知れません。罪の意識が、マニの接触したキリスト教からの借り物でなければ……ですが。


Back Index Next