9/36回 <聖書>3

あなたの心の中に

旧約聖書  申命記 30:11−20

 まことに、私が、今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむつかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。………まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
 見よ。私は確かに今日、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が今日あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きてその数はふえる。あなたの神、主は、あなたが入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もしあなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたがヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で長く生きることはできない。私は今日、あなたがたに対して天と地とを証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。
新約聖書 ロマ 10:8−13

 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
T 神さまから遠く離れて

 キリスト教の基礎的なことをと願いながら、神さま、人間・罪、聖書と3回づつ見てきました。今回は聖書の3回目です。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」(ロマ書10:8)と、ここから3つのことを中心に見ていきたいと思います。

 第一に、「近くに」ということですが、パウロはロ−マにいるユダヤ人を意識しながらこれを書いているようです。ユダヤ人は、自分たちを神さまの選民と誇り、モ−セの律法を何よりも重んじていました。昔は神さまとイスラエルの間に立つ仲介者として王や預言者がいたのですが、当時すでに王もなく、預言者もいません。ロ−マ帝国の支配下に置かれ、かつての栄光は見る影もなく落ちぶれていました。そんな彼らでしたから、なお一層、神さまと彼らを結ぶ唯一のものとして、モ−セの律法を大切にしようと思っていたのでしょう。彼らは、「これを守り行うなら、あなたがたはわたしの民として長く生きることができる」と聞いてきました。しかし、守ろうとすればするほど守ることができず、律法が与えられたその昔から、イスラエルは律法違反を繰り返してきたのです。それは彼らイスラエルだけではなく、人間全部に言えることでしょう。彼らは、この乱れている現状は神さまの裁きであって、選民であることから見捨てられた結果だと受け留め、神さまが遠く離れてしまったと絶望していました。パウロが「みことばはあなたの近くにある」と言うのは、そんなユダヤ人たちに対してです。ロ−マにいるユダヤ人たちは、遠くイスラエルの地を離れていましたから、尚更、自分たちが神さまから遠く離れていると感じたのではないでしょうか。

 しかし、神さまから遠くに離れているのは、現代の私たちではないでしょうか。聖書がキリスト教の聖典であると誰もが知っていますが、それがイエスさまの福音であり、救いを指し示していることにはほとんど関心がありません。まして、それが自分に語りかけられているとは決して思わないのです。私が牧師だと聞いて、「先生は日本語が上手ですね」と言った人がいました。アメリカ人だと思ったんですね。貧しく、病んで、弱く、社会からはみ出た者たちの希望として始まった信仰者の群れが、現代日本で、インテリの宗教、アメリカの宗教とさえ言う人がいます。戦後大量の宣教師を日本に送り込んだマッカ−サ−政策が、そんな意識を育てたのでしょうか。しかしそれはアメリカのせいではなく、古くからキリシタン禁教の日本の国策が、イエスさまや聖書を日本人の意識から遠いものにしてしまったのでしょう。でも、本当に神さまは私たちにとって遠いお方なのでしょうか。


U 語り掛けと応答と

 神さまが遠いということを少し考えて見たいのです。伝統、宗教観、家の宗教といった社会性に根ざした気質など、いろいろ原因があるでしょうが、日本人は実在の神さまを見ていないと言えばそれで十分ではないでしょうか。極端な言い方かも知れませんが、「いると思えばいるし、いないと思えばいない」、日本人の神意識はそれに尽きると思います。日本人に無神論者が多いのもそこに原因があるのでしょう。助けを求めても叶えられないと、遠くにいるか、存在しないことになってしまう。誰のせいでもなく、自分自身の問題です。ところが、聖書の神さまは実在のお方であって、私たち人間がいるいないに関わらず、永遠の昔から存在し、ご自身をはっきりと現わしておられます。前にも触れた事ですが、1つはことばを通して、それが聖書でした。そしてもう1つ、パウロは「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」と言い、信仰のことば、イエスさまであると補足します。旧約聖書の時代に「みことばはあなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30:14)と言われ、神さまの命令を守るならあなたを祝福するとイスラエルに宣言されました。しかし、イエスさまの祝福は、私たちの罪のために身代わりに死んでくださった十字架の無条件の恵みです。どんなに努力しても神さまに近づくことはできない、それはイスラエルが十分実証済みのことです。その神さまが、イエスさまによって、日本人・アメリカ人の区別なしに、私たちに近づいて来られました。私たちは知らなかったのですが、神さまは私たち日本人の神さまでもあります。「あなたの近くに」とは、現代の日本人、私たちへの語り掛けでもあると聞いて頂きたいのです。

 第二に、「あなたの口にある」ということです。聖書にはいろいろな物語があって面白く、わくわくしながら読んでいくのですが、今、聖書は神さまからの語り掛けであると聞きました。その語り掛けに応えることが求められています。語り掛けている聖書のことばに応答する、それが「あなたの口に」ということで、あなたの神さまへの信仰の告白なのです。イエスさまが十字架に死なれたと聞いて、それは私の罪のためであったと信じ告白し、その告白に基づいてバプテスマ(洗礼)を受ける。これが救いのことばを聞いた者の応答です。主の教会に加えられ、兄弟姉妹と信仰の交わりを深め、十字架とよみがえりの証人としてあなたが聞いた聖書のことばを他の人たちにも伝えていく、それが主ご自身から託された勤めです。私たちの口にある救いのみことばを、さらに大きく広げていきたいと願わされます。


V 祈りの中で

 第三は「あなたの心に」ということです。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(9)とあります。まず信じることです。ところが、人は信じるという単純なことができず、反発したり、疑ったり、信じることができない理由をいろいろ挙げたりして、自分の頑固さを呪っています。信じない理由などいくらでも上げられますが、それでは問題は解決しないのです。信じたいと思うなら、神さまの前に立つことですから、理由など数え立てず、イエスさまの出来事が事実かどうかを確かめることです。聖書は十分に答えてくれるでしょう。事実なら、信じませんとは言えないですね。現代の私たちはイエスさまにお会いして直接聞くことはできませんが、新約聖書中、最も遅い時期(紀元90何年か)に福音書を著したヨハネも、よみがえりのイエスさまとの出会いから、「見ないで信じる者は幸いである」と言っています。2千年前と現代、時代は離れていても、イエスさまにお会いできないという点では同じですね。ですから、ヨハネのことばもパウロのことばも、聖書から現代の私たちへの語り掛けと聞くことができるのです。聖書が語る事実は、神さまからあなたへの問い掛けです。そして今度はあなたがその問い掛けに答えていく番です。「主よ。あなたの十字架が罪からの救いであると聞きました。それが私のためであったと言われます。どうか、信じることができるように、頑固な者を助けてください」と祈りましょう。13節に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあります。みことばをあなたの心で聞いて、神さまに助けを求めるのです。これが祈りの原点です。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(10:11)とありますが、その約束に信頼していきましょう。