8/36回 <聖書>2 

力あることばを

旧約聖書  エレミヤ 20:7−9

 私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとにわめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。


新約聖書  Tコリント 1:18

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

T 神さまのことばを取り次ぐ者

 聖書、特に旧約聖書に多いのですが、預言者と呼ばれる人たちが登場して来ます。旧約聖書の3分の1にも上りますが、イザヤ書やエレミヤ書など後半の部分は、預言者と呼ばれた人たちが直接書いた書物です。まず、預言者ということから見ていきましょう。

 ところで預言者とは、未来のことを語る予見者と考えるのではないかと思いますが、確かに、彼らはこれから起ころうとすることをまるで見て来たかのように語りますので、そう呼ばれるのも当たっているでしょう。しかし、聖書の預言者たちは、未来ばかりではなく、過去のことも現在のことも自由自在に語っています。それは、彼らが神さまからのメッセ−ジを語るのであって、その時代時代の人たちに、慰めや希望や約束、時には裁きを伝えようとするために、神さまの目になって、時を超えて人の内面を見通していくからでしょう。預言者たちは、未来のことよりも、人間に対する神さまの目を大切にした人たちだったと言えます。預言者ということばは、「神さまのことばを取り次ぐ者」という意味です。天使や使徒もほとんど同じ意味を持っているのですが、その意味で聖書全体が預言の書であり、神さまからの慰めの書、ときには審判の書であると聞かなければなりません。そして過去を語り、未来を語っても、聞く人にとっての今に語りかけていると聞いていくのです。聖書は、神さまのメッセ−ジとして、現代の、今現在の私たちが心を込めて聞いていくものと覚えて頂きたいのです。

 預言者が神さまのことばを取り次ごうとするとき、神さまの希望と裁きの2つが語られているようです。今回は預言者エレミヤを通して、2つのことを見ていきたいと思います。エレミヤのことばに現れている、それは現代の私たちへのものでもあると思うのですが、神さまから私たちへの熱い思いを汲み取って頂きたいのです。


U 燃える火のように

 エレミヤのことです。彼は祭司ヒルキヤの子でしたが、祭司職に就く前、20才の頃、預言者として召し出され、BC600年頃の約60年間、南ユダ王国で神さまのメッセージを伝えました。

 1章から紹介しましょう。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前からあなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」と神さまが言われます。エレミヤは「ああ神よ、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と拒みますが、神さまが断然強い。「まだ若いと言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ」と命じられ、彼は神さまに従いました。神さまがエレミヤに託したメッセ−ジは、徹底してイスラエルの神さまへの背信を指摘し、神さまの裁きを宣告することでした。前回見たヨシヤ王の時代に彼の活動が始まったようですが、ヨシヤ王の宗教改革に始まる平和の時代はたちまち過ぎ去り、王が変わるやいなや、イスラエルはまた神さまを忘れ、不道徳、賄賂、強盗、争い、ありとあらゆる悪がイスラエルに蔓延していきました。神さまがイスラエルをどう見ているのか、少し紹介しましょう。「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたはわたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。たとい、あなたがソ−ダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎はわたしの前では汚れている」(2:21−22) これがエレミヤ書全篇を通しての宣言であり、その裁きは、彼らがバビロンの手によって滅亡するというものです。当然、彼らは「国が滅亡するとは何事か。しかもバビロンに滅ぼされてしまえとは。お前は非国民だ」と激怒します。

 彼ほどの愛国者が、同国人の誰からも理解されず、ののしられ、打たれ、投獄され、足かせに繋がれ、穴に投げ込まれ、そしてついに、異国エジプトでいのちを落としたようです。苦労と悲しみの中で彼は、エルサレムがバビロンの軍隊に包囲されて陥落し、聖なる都が破壊される様子を目撃します。彼は、祖国イスラエルの滅亡とバビロンへの捕囚を目撃し、その故に、悲しみの預言者と呼ばれるようになります。「私は一日中物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」(20:7−9) 彼のその苦悩が痛いほど伝わって来ます。そしてついに、苦悩のあまり彼は口を閉ざしてしまいます。「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いました」と。

 しかし、彼はなおも神さまに動かされ、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」(20:9)と言います。私自身のことを思うのですが、伝道者になって40年を過ぎますが、何度も止めようと思ったことがありました。しかし、誰かがイエスさまを信じてバプテスマを受け、神さまのものになった喜びに輝いているのを見ると嬉しくて、その喜びがあってここまで続いてきたのだと思うのです。このエレミヤの苦悩に、イエスさまの出来事が重なって見えてきます。十字架はイエスさまにとって苦しみの極限でしたが、「自分のいのちの激しい苦しみを見て満足する」(イザヤ53:11)と旧約聖書に言われていて、それは私たちの罪からの救いのためでした。イエスさまが私たちに代わって苦しんでくださったから、そこに慰めが生まれたのです。


V 力あることばを

 現代は言葉が力を失っている時代と言われます。特に、日本でそれが著しいようです。いろいろ原因はあるでしょうが、識者たちはほとんど一致して、60年と70年の安保闘争、続く学校教師の勤務評定闘争に始まると指摘しています。この3つをめぐって激しい学生運動がありましたが、結局、政府の権力に押し切られ、安保も勤務評定も通ってしまい、若者たちにはみじめな敗北感が残ったのです。それは学生運動だけでなく、教育界や司法の世界にも政治権力が入り込むきっかけになり、力とは、ことばではなく、権力であり数なのだという論理がまかり通ることになってしまいました。民主主義の曲がり角だったと言えるでしょう。かつては、欧米文化に魅了された民主主義初期に、「ペンは剣よりも強し」といった、言論こそ良いものを築き上げるという理想がありました。それが力を失って、まかり通っていくのは権力であり、金であり、数であり、大声であり、一部かも知れないがマスコミであり、暴力でさえあるのです。

 しかし、ことばが力を失ってしまった私たち教会のことを考えてみたいのです。教会からのメッセージは徹底的に無視され、神さまのことなど全く関係ないところで、現代人の生活が進んでいます。聞かない側にも問題があると思いますが、語る私たちの側もいくつもの問題を抱えました。教会はともかくたくさんの人を集めたい。大きな教会が良い教会だという常識さえ出来上がっています。聖書からはどんどん離れ、カリスマ的指導者が、まるで別のキリスト教を構築しています。そんな傾向が日ましに強くなっていると感じます。「その日、わたしはこの地にききんを送る。パンのききんではない。実に、主のことばを聞くことのききんである」(アモス8:11)とありますが、言葉が力を失ったところに、神さまの裁きのようなものを感じるです。

 そんな時代だからこそ、神さまのことばは私たちを慰め、励まし、正しくし、救いに導く力だと声を上げていきたいのです。先に、神さまの息吹は、聖書を書いた人にも、書き写した人にも、翻訳した人にも、そして、それを読む人にも同じように注がれており、だからこそ、そのみことばに感動してイエスさまを信じ救われる人たちが、現代にまで続いてきたと触れました。聖書自身が神さまの力を持っているのです。それは人を神さまのもとに導いてやまない恵みあるものでしょう。今回の聖書の箇所を覚えて頂きたいのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(Tコリント1:18) ともすれば、ことばではない「力」に向かう私たちにとって、神さまの慰め、救いは愚かなものでしょうか。心の耳を開いて、神さまのことばに聞こうとするなら、そこに行き詰まった私たちへの解決、助けがあります。何よりも、私たちを陥れようとする罪からの救いがあります。神さまのみことばの中に、その救いを見付け出して欲しいと思います。かい間見ることさえ不可能な死の世界に手を伸ばして、「娘よ。起きなさい」と言われたイエスさまの救いが、今も、力ある希望のみことばとして、悩み、苦しみ、迷いの中にあるあなたにも語り掛けられていると覚えて頂きたいのです。