7/36回 <聖書>1 

旗印を掲げて

旧約聖書 U列王記23:2−3

 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。

新約聖書 第2テモテ3:14−17

 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです

T 神さまの特別啓示

 私たちが、神さまを私たちの神さまと認めるために、可能なことを考えてみました。神さまのかたちに造られた私たち人間を観察することもその一つ、また、神さまが創造された天と地のあらゆるもの、美しい星や花や山や海も、神さまを思い考える材料になるのではと思います。神さまはあらゆるものを通してご自身を啓示しておられるからです。けれども、前回までしばらく、「人間の罪」を考えてきました。神さまから離れ、その罪ゆえに神さまが認められなくなった人間にとって、回りに見えるものを通して聖なる神さまを思うことは難しく、いや、不可能なことでした。見ても見えず、聞いても聞こえない私たちですから。私たち人間の側からは神さまに近づくことはできないのです。ところが、神さまはそんな私たち人間の神でありたいと望まれて、特別な方法でご自身を現わされました。今回はその特別な啓示を考えて見たいと思います。2つのことがあります。一つは「はじめにことばがあった」、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とヨハネ1章にあることば・イエスさまです。そしてもう一つは今回から見ていこうとする聖書です。聖書は神さまが私たちに与えてくださった神さまの特別な思いである啓示・神さまのことばであると聞いていきたいのです。


U 神さまの霊感を受けて

 最初に新約聖書第2テモテ3章です。この箇所は聖書が神さまのことばであると宣言している第1の箇所でしょう。暗記してもいい聖句です。まずここに言われる聖書ですが、一つは新約時代のパウロが言っているのですから、旧約聖書のことでしょう。そしてもう一つあります。エペソ教会のまだ若い牧師テモテに殉教直前のパウロがこの書簡を送ったのは、AD67年頃と思われます。ヨハネなど一部のものはまだ書かれてなく、現在の新約聖書という形は出来上がっていませんでしたが、すでに各地に教会が建てられて、パウロの書簡やマタイ、マルコ、ルカの福音書など相当のものは出回っておりました。当時、イエスさまにお会いしたことのない弟子たちがほとんどという教会で、これらは信仰の励ましの書物として読まれていたのです。これもまた「聖書」に含まれていると言えましょう。

 さて、パウロは「聖書は神の霊感によるもので」と言います。霊感という言葉が聖書を理解する大切な鍵でしょう。これは創世記2:7にある<神さまの息を吹き込まれた>というもので、<聖書は神さまの作品>という主張と考えてよいかと思います。ところが、これは過去いろいろな誤解を受けて来ました。たとえば、記者の手がロボットのように神さまに遠隔操作されて出来あがったと考え、馬鹿馬鹿しいと言う人たちがいます。或は、これを読む人の中で、ある箇所が神さまのことばになっていくと考えた人もいます。これは人間の主観に基づいたものですが、今もその考え方が大多数の神学者に支持されています。いずれにしても、聖書が神がかりの状態で出来上がったとするものですが、こういった議論に対して私たちは、神さまが記者の自由な発想を助けながらご自分のメッセ−ジをそこに著されたと理解しています。ですから、たとえばマタイは、イエスさまの弟子として、取税人だった経歴も、イエスさまに声をかけられた経緯も、その時代のことも、社会状況も、またガリラヤやエルサレムなどその土地のことも、彼の血となり肉となって文章ににじみ出て、その感性、知識、人脈、そして集めた資料も、あらゆることを用いつつ、考えつつ全身全霊込めて福音書を書きました。そのとき、彼の思考のひとつひとつを、またその判断の何もかもを神さまは誤りのないものに導き、調和させ、ご自分のことばとして統一あるものにされたと理解します。文字を綴っていく彼の全人格に神さまは、ご自身の聖なる思いを注ぎ込まれたのでしょう。人は理性を持っています。神さまはその理性にさえ介入できるお方であると、私たちは聖書を学びつつ信仰の告白をしていくのです。

 そして、聖書の原典においてその記述に霊なる力を注がれた神さまは、その写本にも、また翻訳にも、そして、これを読む人にも同じ助けを与えられたと私たちは考えます。残念ながら、写本や翻訳、そして読むという作業には人間的な部分が入る機会が多く、その時代その時代ごとに入り込んできた思想なり個性といったものが感じられるのですが、写本や翻訳に誤りがあり、読むときに誤解するところがあったとしても、聖書は各時代に確かに人々を神さまに導いてきました。神さまの息吹が、時代を超えて聖書に聞こうとする私たちに働きかけていることを覚えて頂きたいのです。それは私たちを教え、戒め、誤りを正だし、知恵を与え、神さまの義に導き、救いに入らせてくださる神さまのことばですから。


V 旗印を掲げて

 もうひとつのことです。旧約聖書の列王記U23章ですが、イスラエルが2つの王国に分裂して16人目の王ヨシヤの時代、BC600年頃のことです。分裂ということからもその内情がお分かりでしょうが、当時のイスラエルは反乱と戦争と社会的混乱と……と大変な最中でした。道徳は退廃し、賄賂、人殺し、強盗が横行して国内が乱れていた上に、絶えず侵略の危機がありました。わずか8才で南ユダ王国の王となったヨシヤはやがて、そのような状態になったのは神さまへの不信仰の故であると、エルサレム神殿の修理を思い立ちます。その修理の最中に律法の書が発見されました。彼は全住民を集め、それを読み聞かせ、そのことばを実行するようにと誓いを交わします。ヨシヤの宗教改革です。律法の書、契約の書とも言われますが、これはイスラエルにとって聖なる神さまのことばでした。彼らは神さまが選ばれた唯一の民族であると誇りを持っていましたから、そんな彼らにとって何にも優る聖なる書物だったのです。彼らはそれを長い間忘れていました。ヨシヤ王は、そのためにイスラエルに混乱が生じたと考えたのでしょう。今、イスラエルは、何よりも神さまのことばを聞かなければならないと思ったのです。神さまのことばに対する彼の信仰が伝わってくるような記事です。31年間彼は南ユダ王国を治めましたが、それも彼の宗教改革という神さまへの復帰あってのことと思われます。彼については「主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と記されています。彼の治世は穏やかで平和な時代でした。同じ並行記事ですが、歴代誌Uに神さまのことばが記されています。「神さまのことばを聞いて心を痛め、神さまの前にへり下ったから、わたしもあなたの願いを聞き入れる」(34章) 彼の思いを私たちも共有できたらと思います。

 旧約聖書にはヨシヤの他にもう一度、バビロン補囚から帰還した祭司エズラによって宗教改革が行われたと記されています。彼もまた民衆の前で律法の書を読み上げ、神さまへの信仰復興を図りました。バビロニヤ帝国の侵略で荒廃していたエルサレムの復興は、聖書を読むことから始まったのです。更に、新約聖書の時代、イエスさまの命令で福音をたずさえて出て行った弟子たちが、「御霊の与える剣である神のことば」(エペソ6:17)をもって主を証言したことを忘れてはなりません。彼らはみことばという旗印を掲げたのです。そして、1517年のマルチン・ルタ−に始まる近代宗教改革が、ただ信仰のみ、ただ聖書のみという旗印を掲げたことも私たちを励ましてやみません。神さまのことばである聖書に土台を築いたキリスト教信仰こそ、初代使徒たちから受け継いだイエスさまを信じる信仰の中身であることを、しっかりと心に留めておきたいと思います。聖書を毎日読んで頂きたいのです。きっとそこに、心熱くなるような神さまとの出会いがあるでしょう。聖書を掲げることこそ、私たちの信仰の旗印なのですから。