6/36回 <人間>3 

道をはずれて

旧約聖書 創世記 3:1−13

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べた。いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
 そよ風の吹くころ、彼らは歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで、私は食べたのです。」

新約聖書 ガラテヤ 5:19−26

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、腐敗、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

T 私たちの内面に

 これまでに私たちは、創世記1章と2章から、神さまのかたちに創造された人間を見てきました。特に前回2章では、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった」と、<いのち>のことを聞いて来ましたが、いかがでしたか。それは、神さまだけが持っておられる聖という部分でした。聖とは他の存在との完全な区別を意味し、その神さまの聖を頂いた人間だから、私たちは他の被造物とは全く異なる存在となったのです。そこから愛、喜び、平安、寛容、親切、犠牲といった本来神さまが持つ善なるものが溢れてくるのですが、それを私たちが受け継いだのです。

 ところが、私たち自身のことを考えると、聖なる者なんてとても恥ずかしくて言えないですね。あの日あの時の、言ったこと、したことが消えてしまえばいいのにと思うほどエゴーが強く、人をとことん傷つけて、「お前は聖なる神さまに似た者として創造され、善なる者として存在するのだ」と言われても、「私がですか?」と引いてしまうほどです。今回、私たちのそんな<罪>の問題を考えてみたいのです。「大工っ気と泥棒っ気がなければ人間ではない」と言われますが、確かにその通りでしょう。けれども、罪の問題は文学の世界でも、聖書が語っているところでも大きくて複雑です。罪とは盗みや殺人ばかりではなく、それは私たちの内面に深く関わっています。その罪を自分に認めながら、聖書から聞いていきたいのです。

 これは心理学、人間学といった講義ではありません。聖書という神さまのことばから、神さまの前に心を傾けながら聞いて頂きたいのです。イエスさまを信じる信仰は、あなたが罪を認め、悔い改めてイエスさまの十字架に目を向け、出会うところから始まるのですから。


U 欲望の弁護者を

 日本人には罪の意識がないと、日本人論の古典「菊と刀」(ルース・ベネディクト)にあります。しかし、実際に私たちは自分の中に罪があると感じています。うそも憎しみも決して他人ごとではない。ただ、その罪が何か、また、その罪をどうしたいのかと問われると、どう答えていいか分からないのです。今回は、その罪を、私たち自身の問題として考えてみたいのです。

 まず創世記3章からですが、人間の中にどうして罪が入ってきたか、またその罪はどんなことだったか、人間と罪との最初の関わりです。

 エデンの園で、神さまといっしょに愛と喜びと平安の中に過ごしていたアダムとエバの前に、誘惑者が現われました。不思議なことに人間の言葉を話す蛇。彼はまずエバを誘惑します。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」(3:1)エバが、続いてアダムもその誘惑に負けてしまいます。罪の発端です。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし……」、「それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないから」と神さまが言われたとエバは訴えました。けれども、神さまはこう言われたのです。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(2:16−17) 誘導が巧みだったこともありましょう。しかし、その実を食べてはいけないと聞いて、エバはその実がどんなにおいしかろうかと、食べたい誘惑を押さえることができず、誘惑者の前で彼女は、神さまのことばを自分に都合良くねじ曲げていたのです。ここに、罪に問われる私たちの問題が浮かび上がってきます。蛇はエバが願ったように、彼女の欲望を弁護してくれました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになる」(4−5)彼女は神さまに問い詰められて「蛇が私を誘惑した」と答えますが、それは罪の結果である責任転化であり、自分を弁護してくれる者を、彼女は神さま以外に求めたのです。

 私たちにとってもそうだと思うのですが、いざなう者は実に巧みに私たちの心に忍び込んできますが、彼は忍び込んだ痕跡を全く残しません。そして、罪は私たちの中に残り、その罪の責任を私たちが負わなければならないのです!! いざなう者、彼は蛇となっていますが、黙示録20:2には「悪魔でありサタンである竜、あの年を経た蛇」となっていて、サタンとか悪魔と呼ばれている者のようです。悪魔の正体などと問題を広げるつもりはありませんが、「神さまに反抗する者」という意味です。聖書はこの悪魔を、もともと神さまに仕える天使だったが、神さまに反抗して追放された者と記録しています。人間の欲望と高慢の心に入り込んで、人間を支配し、憎しみや争いの虜にするのです。神さまを除いてその力に打ち勝つ者は誰もいません。神さまを見失った人間にとって、絶対の存在と言えましょう。彼は隙あらばと私たちを狙い、罪に誘い、神さまの前に立って私たちを告発します。そんな力ある者の虜にならないよう、本気で罪との戦いをしているかと聞いていきたいのです。


V 道をはずれて

 もう一つのことです。エバが禁断の木の実を食べたのは、悪魔が弁護してくれたからでした。彼女は、自分の心が欲望に傾くのを当然と認め、理解してくれる者を選んだのです。彼女の欲望にとって神さまは煙たい存在だったのでしょう。彼女は神さまのかたちに造られた自分の聖なる部分を、欲望の中で見失ってしまったのです。「女が見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(6節) 一旦欲望に負けてしまうと、あとはどんどん増幅するばかりです。ついに夫まで巻き込んで、罪は回りの人たちをどこまでも道づれにするものでしょう。だからエバから始まった罪が現代の私たちにまで続いているのです。しかも、その責任は罪を犯した本人が問われるのです。罪は欲望から生まれ、その欲望は、自分を満足させようとして、神さまをないがしろにする心から出て来るのです。

 私自身のことですが、頑固で極めて我が強い、これが私の罪の最も大きな部分だと思っています。愛が育たないのもそれが原因と反省させられます。自己主張は子どもが大人になっていくための大切な過程ですが、どうかすると、それは他者否定につながりかねません。神さまの似姿に造られたことを大切にするなら、自己主張は神さまへの自発的愛という意思に育つでしょう。しかし悪魔と手を結ぶなら、自分中心の他者否定がのさばり、優しさも思いやりも愛も入り込む余地がなくなってしまいます。最近、そんなことを感じさせる事件がやたら多いですね。罪という言葉は旧約と新約で少しニュ−アンスが違うのですが、もともとは「的をはずす」ということばから来ています。そして、そこから離反、不誠実、反逆といった意味が生まれてきました。罪の具体的なものがガラテヤ書に指摘されています。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、遊興……」 このように聞いてきますと、私たちの生き方はまさに罪そのものと思わされます。的であり道であるべき神さまから外れた生き方が指摘されているのでしょう。もしかしたら、私たちは悪魔に同意を求めつつ自分を正当化しているのかも知れません。神さまに問い詰められて、アダムは「女が私を」と言い、エバは「蛇が私を惑わした」と責任逃れをしました。罪の意識すら失って、的を外した罪の恐ろしさです。私たちが自分の正しさを主張しようとするなら、その正しさが罪に数えられてしまうのです。罪とは根深いものです。しかし、そんな私たちのために、神さまは、独り子イエスさまを私たちの罪の贖いとして十字架に送ってくださいました。その愛の深さを、罪の問題とともに覚えていきたいのです。